珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

内からの救いの手についての覚書|心のゆうえんちで僕と握手

自己否定の塊も絞りに絞ればなんか出て来る

自己を過小評価している人間、大抵「過小評価」の自覚がある説。つまり、外界(他人)に向かっては常に「ご存知のとおり自分は無能産廃ゴミカスクソ人間です」と自己表明をしておき、内界(自分)に向かっても常に「ご存知のとおり自分は無能産廃ゴミカスクソ人間です」と自己表明しつつも、「まあ実を言うと、こういうことが出来たりするんだけどね……テへ」「まあ実を言うと、たまに褒められたりするんだけどね……ウフ」という自己弁護を完全に殺しきれないでいる。毎日毎日自己否定にまみれながらも、「日頃言ってるほど自分は無能産廃ゴミカスクソ人間ではない」という意識がミジンコくらいはある。それらは自尊心を守る最後の砦である。それが強く働きすぎると外界に向かっても「まあ実を言うと」のくだりをやり始めてしまい、いわゆる「構ってちゃん」になるのだけれど。本当は誰かに「そんなことないよ」と言って欲しいけど、誰かに言わせるのは忍びないしみっともないし嫌われるのは怖いから、心の中の防音室でひっそりと口にするのだ。「おい自分、そんなことないよ」と。にしたって白黒さん、随分詳しいですね。ええ、だって自分のことですからね。

今生きてるのがその証拠

これは厭味ではない。そういう意識があるのは当たり前である。真の絶望者を自負する人間の心の中にそういう意識があったとしても、それは何ら恥ずべきことではない。人に備わっている治癒能力が立派に作用している証拠である。失望の谷に迷い込んで、自暴自棄になって、外からの救いの手を何度も拒絶して、終いには外からの救いの手が差し伸べられなくなったとしても、内からの救いの手だけは最後の最後まで救済を諦めないからだ。救いなんかこれっぽっちも必要ない、最早死ぬこと以外何も欲しくないという時でさえも、内からの救いの手は我々の心にしつこく迫ってくる。「お前はこういうことが出来たりするじゃないか」「お前はたまに褒められたりするじゃないか」と言って、我々の心を支えようとする。時には甘いものや辛いものを大量に食わせようとしたり、他人やモノに当たるようそそのかしたり、煙草やアルコールやいけないお薬を勧めてきたりと困ったやり方で救済しようとするけれど、それらを拒絶出来ないのは、内からの救いの手がそれだけ我々を生かしたくて生かしたくて仕方がないからなのだろう。内からの救いの手が差し伸べられなくなった時がまさに生命が終わる瞬間であり、生命が終わる瞬間に初めて内からの救いの手はその救助活動を止めるのである。

救いの手は私の好物を完璧に把握しているので逆らえないんだよなあ

内からの救いの手などと大仰な言い方をしてしまったが、なんてことはない。何かで失敗してしまったときに「でも上手くやったこともあるし」「でも昨日は別件で褒められたから」と過去の成功を必死に思い出して自分を慰めるのは、内からの救いの手に上手く掴まっている証拠である。「自分よりアイツの方がヤバい失敗してる」と他人の失敗を必死に思い出してどうにか持ち直そうとするのも、まあある意味で内からの救いの手だろう。今すぐ逃げ出して布団被って寝たい時に「あと2時間我慢すれば帰れる」と自分に向かって必死に言い聞かせている時は、内からの救いの手が「あと2時間我慢すればお前は帰れるんやで」と言っているのである。5分後には後悔すると分かっていながらスナック菓子をヤケ食いしている時、内からの救いの手は「ほらスナック菓子ウマいやろ、いっぱい食って元気だしな」と言っているのである。お前のせいでこっちはブクブク太っているというのに悠長なやつだな。ありがとよ。

話は全く変わるのだけれど

 近頃コンビニで売っているカップ麺めっちゃ高くないですか?

 

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「自分らしさ」についての覚書|そんなことよりパンケーキ焼こうよ

ジブンラ=シーサ(1993生~1993没)

これといった特徴のない、凡庸な、まるきり凡庸な人間が、「自分らしさ」を追求することに意味はあるのかについて。ここでは「凡庸だと思っているのは当人だけであって他人から見れば実はこんな長所が云々」というような、前提を疑う話は無しにしておこう。自分らしさがまるで無いことが自分らしさなのだろうか。ええと、「自分らしさ」が現時点で・・・・無いということは、つまりこれからどんな人間にもなれるということであって、そういった意味では無限の可能性が……という話ではなく!ええい、人間は隙あらば物事を変換しようとする!頭の中の変換キーが常にめり込んでいて、一文字打っては変換、一文字打っては変換を延々繰り返す!それに「自分らしさ」が現時点で・・・・無いのではなく、今も、これから先も・・・・・・・・・無いのだ!「自分らしさ」が無い=無限の可能性?そんなお花畑理論はやめろ!ファッキン「自分らしさ」!

耳障りのよい篩(ふるい)もあったものだ

何故人は口を開けば「自分らしさ」とのたまうのか。何故人々は口を揃えて「自分らしさ」を求めるのか。何故世の中は「自分らしさ」を必要としているのか。一体全体誰が「自分らしさ」が必要な世の中を作り上げてしまったのか。今の世の中が「自分らしさ」を求めるのは、「自分らしさ」のある人間を選び抜くためではなく、「自分らしさ」のない人間をふるい落とすためではなかろうか。かつて「自分らしさ」のある人間が2割、そうでない人間が8割だったのが、今となっては世の中の要求にせっつかれて「自分らしさ」を強いられた人間が8割、その要求に応えられない人間が2割、そしてその出来損ないの2割を社会からふるい落とすために「自分らしさ」を絶えず要求し続けるというわけだ。この理論は私が今適当に考えたもので何の根拠も無いけれど、あながち間違いというわけでも無いと思う。そして私はその2割である。チクショー!

「自分らしさ」が無いので闇堕ちします

どんなに頑張ってもその場しのぎの「自分らしさ」さえ用意出来ずに社会から落伍していく同志諸君、我々はこれからどうしようか。「自分らしさ」が無くともこの世に生まれたからにはどうにかこうにか社会にしがみつくしかないのだ。今や「自分らしさ」が無いことはマイノリティである。限りなく悪い意味を含んだマイノリティである。だったらこう、マイノリティをパワーにして、こう……「自分らしさ」が無いことが「自分らしさ」みたいな……つまり、つまりだね、我々が考えるべきは「自分らしさ」が無いことを「自分らしさ」として生きていくために、どんなエネルギーが必要なのかということ……そしてそれは誰がどう考えたって負のエネルギーでしか有り得ないということ……そんな負のエネルギーを四六時中放出していたら我々の精神は一体どうなるのか……死ぬわ!ワッハッハ!

すぐに裏返したがる悪い癖

 「自分らしさ」は私の中で常に裏返ろうとする。SCPの某ちくわよろしく、常に裏返ろうとする。「もしかしてXXは自分の良いところ、「自分らしさ」なのでは?」という考えも瞬時に裏返って、「アッそれってつまり裏を返せばYYってことじゃないか?自分の良いところなんて結局無いんじゃないか!」となる。どうしてそこで裏返すんだ!そうやって何でもかんでも即座に裏返そうとするから型崩れを起こすのだ。フライパンに流し込んだパンケーキミックスを3秒で裏返す奴があるか!片面がきちんと焼けるまで待って、待って、十分に火が通ってそれから裏返す……アッだから裏返しちゃだめだって言ってるだろ!ステイ!ステイ!

 まとめ

Q.どうして今日はこんなにテンションが高いんですか?

A.疲れているからです。

 

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揚げた芋についての覚書|ネタが切れたら「ネタが切れました」ネタで記事を書けばいいというブロガー向けライフハック

下書きの海、上書きの山

前回の記事であんなことを大仰に書いておきながら、実のところ頻繁にブログ編集画面と向かい合ってはウンウン唸っている。参った。出ない。完全にアイデアの便秘だ。思考の糞詰まりだ。出そうなモノはある。すぐそこまで出かかっている。だが出ない。つまらぬ下書きばかりがどんどん増えていく。そんなつまらぬ下書き連中もなんとかしてつまる下書きに出来ぬものかと思い、アレコレ手を加えてはみるけれども、今度はつまらぬ下書きの上書きばかりがどんどん増えていく有様である。結局は新鮮、無添加、これに尽きる。最近食塩無添加のポテトチップスをよく見かけるのもそういうことなのだろう。そしてそういうシンプルなものほど、誤魔化しと手抜きが利かないので難しい。食塩無添加、素材そのままの記事。カラッと素揚げした、インスピレーションの味。今は本当に書くことがないので、適当に日常の素揚げを並べておくことにする。

 

日常の素揚げ①

近所の道路に血痕が飛び散った場所がある。数百メートル離れた別の小道にも血痕が付いた場所がある。おっかない。今日の雨で流れてくれることを願う。

 

日常の素揚げ②

バイト先のコピー機にレポートの忘れ物があった。読んでみた。「こういう施設があることは知っていたけれど、実際に行ってみて改めてすごいなあと思いました」。なるほど、最近の小学生は介護福祉士養成課程実習なんてものまでやるのだな。すごいなあと思いました。

 

日常の素揚げ③

心に猫を飼うことにした。眠れない昼は猫を数えることにした。昨日は「ねこちゃんが5匹……」まで数えたことは覚えている。ベッドの上にはピカチュウのぬいぐるみが2つある。

 

日常の素揚げ④

ドアポストに入れてあった神社のお守りを保護して1ヶ月が経つ。何やら不思議な魅力を感じて気まぐれにポケットに入れて持ち歩いたりなどするのだが、今年に入ってすこぶる体調が悪く酷い目にばかり遭っているのは、恐らくそういうことなのだろう。人の家のドアポストに呪いのアイテムを入れないでほしい。

 

日常の素揚げ⑤

トイレに異物を流すな

 

堅あげポテト梅味がおいしかった

こってりガーリックバター醤油やら、贅沢トリプルチーズやら、超濃厚サワークリームオニオンやら、どこを取っても血圧が上がりそうなブログばかりのこのご時世、素揚げの記事を集めた食塩無添加のブログに読者を集めることは難しい――いや、このご時世だからこそ、シンプルな味付けに需要があるのかもしれない。私も薄味でまろやかなブログが好き。うちのブログはポテトチップスというよりも、油の温度が高すぎて思いっきり焦がした芋の薄切りと言った方がお似合いな代物だけれど、苦味が恋しくなったら来て頂きたい。いつでもこんがり丸焦げの記事が並んでいるから。

芋くて、美味くて、エモい記事を書いていきたいものだなあ。

 

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オタクは卒業したけど性癖には勝てなかった件についての覚書|オタクの魂百まで

悲しいお知らせです

この記事を書くに先立ち、ここのところ体調がゲロヤバいため更新頻度が落ちる可能性があることをお断りしておく。これはもう間違いなく憑かれている。精神と肉体は性格の不一致で離縁しているし、上半身と下半身は長い交渉の末に決裂しているし、理性と感情は音楽性の違いで解散している。少なくとも私の頭は雑巾ではないのでそんなに絞らないでほしい。それと私の体はひねり揚げでもなければTwizzlersでもない。そんなにねじらないでほしい。こうした心身の健康の悪化は人を癇癪持ちの哲学屋に仕立て上げる。何故世の中には苦しみが存在するのか。何故世の中はそんな苦しみに満ちているのか。何故人はそんな苦しみに満ちた世の中を生きるのか。何故人は苦しみに満ちた世の中でも笑って生きられるのか。何故あいつは苦しみに満ちた世の中を笑って生きられるのに俺は苦しんで生きなきゃならないのか。やろう、ぶっころしてやる。こうした疑問の答えを見つけるべく、私はアメリカ合衆国コロラド州とある小さな町に足を踏み入れた。

サウスパークへ行こうぜ 自分を探しに

何がどうなってこうなったのか、今更も今更、この恐らく地球上で最もトチ狂った町、サウスパークに足を踏み入れた私は、とある1人のキャラクターに体中の性癖という性癖を穿たれて死んだ。今ブログを書いているのは次の私である。今回はうまくやろうと思う。ところで前の私は一体誰に500万個あると言われる全身の性癖の穴を穿たれて死んだのかというと、

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ゴスキッズと呼ばれるこの4人組の中の

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彼。マイケル。ファミリーネームはまだ不明。サウスパークのメインキャラクターはほぼ小学4年生だが彼は恐らく5年生か6年生。Fandomを眺めながら本編やゲーム実況動画やPixivで彼の姿を狂ったように探していたのだが、最近サウスパークスマホゲーの未実装カード画像を見つけて気が狂った。

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尊さ5000兆点。

サウスパークにおいて彼らゴスキッズはかなりマトモな部類であり、マイケルに至っては背が高くて、脚が長くて、声が低くて、黒髪色白で、お化粧男子で、ゴスを着こなし、バンドではボーカルを務め、ダンスも踊れて、非常にクールな一方で面倒見が良く、仲間想いで、案外顔が広く、下級生のごっこ遊びにも付き合ってくれるノリの良さがあり、行動力とある種のカリスマを備え、意外とお茶目で、そこそこいい家に住んでおり、彼の短所らしい短所といえばチンチンが小さいことくらいしかない最高オブ最高なキャラクターである。あのエピソードのラストで駄目な大人共と一緒に笑顔で踊るマイケルは普段の彼とのギャップも相まって実に良かったのだが、果たしてあのチンチン小さい芸人の集い心に怒りを抱えた男の集まりにマイケルが居る必要があったのか、あのエピソードで短小を(間接的に)暴露させられる必要があったのか、それともあれは後に彼がアジア人とのハーフであることが判明する場面への布石だったのか。

ちなみにサウスパークは公式で全話無料で見られる。ネトフリに登録していれば一部シリーズの吹き替えも視聴出来る。日本語字幕を見たい人はニコニコ動画で「ヤマシタパーク」とタグ検索しよう。限りなく黒に近いグレーなのでこのタグのことは秘密だぞ。

*+SP XOXOs2+*www.pixiv.net

この方のマイケル最高だから見て~

助けてSBF

ところがどっこい残念なことに、推しさえいれば心身共に健康でいられるほど若くはないらしい。いや年齢の問題というよりも、推しの力によっても回復不能なほど深刻なダメージを負ったらしい。あーん私これからどうなっちゃうの。同人イベント目当てに東京にでも行けばいいのだろうか。それともスーパーベストフレンズの本部にでも行けばいいのだろうか。

ANIPLEX+で売ってた彼のタペストリーは3枚買った

 ちなみにFGOの推しは彼。

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これで私の性癖がよくお分かり頂けるかと思う。ゴシックな男はいいぞ。

 

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自分が自分である理由についての覚書|水を得た魚、理由を得た人間

哲学スターターデッキに拡張パック『恋愛』と拡張パック『弁論』が3つずつ付いた限定デラックスキットみたいな本

私という人間に価値は無く、私という存在に意味も無いが、私が私という器に入れられたことには何か理由があるらしい。今はプラトンの『パイドロス』を読んでいる。私は書評が致命的にヘタクソなので具体的な中身に触れることは避けるが、もし過去に戻り12歳の私に1冊だけ本を与えることが出来るとしたら、私は間違いなくこの『パイドロス』を残して立ち去るだろう。哲学を考えるのに12歳はいい頃合だ。なんなら10歳の私に与えてもいい。言葉と恋と魂について考えるのに10歳は早すぎるということもあるまい。また全ての漢字にふりがなを振ってくれるのなら、6歳の私に与えることも検討しよう。人間について考えるのに、6歳は早すぎるということもあるまいよ。

よじ登り難く転げ落ち易い

ところで意味深な冒頭で記事を始めたはいいものの特に続きは無い。ただ『パイドロス』を読みながらなんとなく考えついた次第である。自己の生命や存在に関する理由と、意味と、価値は、マズローの欲求五段階説みたいな具合にピラミッドで表せるんじゃなかろうか。まず根底に自分が自分である理由があり、それに対しては「自分が自分であることを受け入れる(≒諦める)」という試練がある。これをクリア出来なかった人間は死人になる。次に自分がここにいる意味があり、それに対しては「自分で自分の存在に意味(=世の中における役割)を見出す」という試練がある。これをクリア出来なかった人間は廃人になる。頂点に自分という存在の価値があり、それに対しては「自分で自分の価値を創出する」という試練がある。これをクリア出来なかった人間は凡人になる。うへえ。人生ってもしかして……難しい感じですかね?

納得も諦めも行き着くところはだいたい一緒

ところで自分が自分である理由について、『パイドロス』に倣って具体性を持たせるならこう。前回、私はしがないロバであったが、しがないロバなりにちゃんとやったので、今回私は人間という器に注いで頂くことが出来た。しかしちゃんとやったとはいえしがないロバは所詮しがないロバであり、勝ち組エリート人間の器を与えるにはまだ早いから、まあ最初はしがない人間の器から始めてみようねということだ。あるいは逆にこう。前回、私は勝ち組エリートであったが、勝ち組エリートの器を鼻にかけあれこれと良くないことばかりやったので、今回私はしがない人間の器にランクダウンされた。理由がどちらであろうと今私が私という器に入っている事実しか享受のしようがないので、この器を頂いたからにはこの器でやっていくしかないのである。これらは言ってしまえば古今東西大小問わずどの宗教にもある転生観だ。どうして古今東西大小問わずどの宗教にも見られるのか。やはり、皆「自分が自分という器に入っていることに対して納得出来る(=諦めのつく)理由」が欲しくて仕方がないのだろう。「天がくじ引きで決めたから」とか「月がテキトーに割り振ったから」とか「宇宙はお前のことが嫌いだから」とかいう理由よりもずっと受け入れやすい……はず。人は常に自分に関する理由を求めている。理由を吸っては理由を吐いて生きている。酸素と同じくらい、下手すれば酸素よりもずっと多くの吸って吐いてを繰り返している。

真理――近づけば近づくほど遠くに見えるもの

考え込みすぎて腹が減ったので食パンを齧りながら失礼する。哲学は、人に近づくことと人から遠ざかることを同時にやってのける学問だと思う。地球の裏側に立っている医者が地球の表側にいる患者の手術をするようなものだ。人に近づきすぎる故に却って遠くなり、人から遠ざかりすぎる故に却って近くなる……哲学にとっての「ちょうどいい場所」は一体どこに存在するのだろう。哲学の巨匠たちは、その「ちょうどいい場所」に限りなく近い位置まで到達したが故に色褪せぬ名著として現代まで読み継がれているわけだが、彼らをもってしても「ちょうどいい場所」には至っていないのだろうなあ。知らんけど。

 

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