珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

じゃがいもで考える人生の可能性についての覚書|じゃがりこ小梅味(期間限定)もいいぞ

隙あらば橋本環奈

湖池屋プライドポテト 芋まるごと食塩不使用」がめっちゃウマい。口に入れた瞬間のスパイスの味で勝敗の8割が決まってしまうようなポテチ界に「噛めば噛むほど素材の味」というかつてない戦術で挑み、(私の中で)見事勝利を掴んだ。全てのポテチを過去にする。このポテトチップスは未来に生きていると思う。プライドポテトの他のフレーバーはまだ食べたことが無いのだが、きっと有名ポテチブランドの同フレーバーと同等の、いやそれ以上の実力を見せてくれると期待している。国民的ポテトチップスである「カルビーポテトチップスうすしお」をナチュラルメイクの石原さとみとするならば、「湖池屋プライドポテト 芋まるごと食塩不使用」はすっぴんの橋本環奈である。

先生、白黒さんの顔色が真っ青です

湖池屋プライドポテト 芋まるごと食塩不使用」を噛み締めながら思う。結局世の中素材の良さだ。素材良ければ全て良しだ。私も素材の良いじゃがいも……ではなく人間に生まれたかった。とはいえ私とてオギャーと生まれた瞬間には湖池屋プライドポテト……ではなく素晴らしい人間になる可能性を秘めていたはずだ。それがいつの間にやら人生というベルトコンベアーに乗せられてその上を流れている内に無慈悲な選別を受け、市場には出せない不良品として脇のコンテナに振り落とされ、お粗末な無人野菜売り場で細々と売られるじゃがいもに成り下がってしまった。田舎の家の朝の味噌汁にぶち込まれるならまだいい方だ。どうせ私なんか理科の授業でクソガキ共にヨウ素液をぶちまけられて顔色が青紫になるまで見世物にされて辱められて終いにはゴミ箱に捨てられるんだ。

なんでも潰せば食べられマッシュ~

私が生きていく内に損ねてしまったものは一体何だろう。損ねてしまったものがあるとすれば、一体どのようにして取り返せるのだろう。マッシュポテトを丸めて捏ねて外見にそれっぽい加工を加えれば元のじゃがいものような何かが出来るだろうが、それは元のじゃがいものような何かであって、元のじゃがいもではない。味はじゃがいも、見た目もじゃがいも、それでもオリジナルのじゃがいもとは別の、じゃがいものような何かだ。ぐちゃぐちゃの自分をどれだけ丸めて捏ねて整えてもそれは綺麗な頃の自分ではなく「丸めて捏ねて整えたぐちゃぐちゃの自分」でしかない。あの頃は……そう、これからカルビーのポテトチップスになるかもしれないし、湖池屋のポテトチップスになるかもしれないし、ピザポテトになるかもしれないし、堅あげポテトになるかもしれないし、プライドポテトになるかもしれないし、じゃがいも心地になるかもしれないし、チップスターになるかもしれないし、なんかの間違いでレイズになるかもしれない、そんな無限の可能性に溢れていた頃のじゃがいもに戻してくれないか。

じゃがいもカースト

これだけではいつも通り自分の芋具合を嘆くだけの記事になってしまうので、なんか適当に付け足しておこう。ぐちゃぐちゃの芋たる私はもう日本で一般的なスライスポテトチップスにはなれない。海外ではプリングルズのような成形ポテトチップスは割とメジャーらしいが……日本に”見切りをつけて”海外へ飛んでいく人々の中にも私のようにじゃがいもの原型を失って日本でポテトチップスになる途を失った者たちが……おっと。金さえあれば私もプリングルズになれたかもしれないな。出来ればサワークリームオニオンが良いな。このまま日本に留まるのであれば、ド田舎スーパーのお惣菜売り場の「エグいほど芋(ときゅうり)の味しかしないポテトサラダ」として売り込んでいくしかない。あんた達みたいな底辺芋のために費やすマヨネーズは無いの。お分かり?

今日のまとめ

じゃがいもはレンジでチンして塩パッパがいちばんうまい。

 

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他人への期待と世の中を思い通りに動かす方法についての覚書|ブログの更新頻度には期待しないでください

私に春がやって来た!

おかしい。近頃の自分は客に対して妙に、こう……優しい。接客業の癖に客に優しいなんて本当にどうかしている。彼らの財布から出た金でメシを食っている身分でこんなことを言うのもアレだが、時には何をどう間違えたらこんな酷い人間が出来上がるのかというくらい酷い連中がやってきて、私は一ヶ月に何人の客を出禁にし、一ヶ月に何度警察を呼べば良いのかと頭を抱え、人間の善性というものを疑い、良識を疑い、理性を疑い、分別を疑い、脳内では性善説を唱える孟子を羽交い締めにし、隣人愛を説くキリストを投げ飛ばしながら過ごしていた矢先の、思いがけない穏やかな春の陽気。そう、これは恐らくきっと、長く厳しい冬を耐え忍んだのちに、暖かな春の風に乗ってやってくるこの世で最も素晴らしい贈り物……完全なる諦めの境地である。

ちょっと男子~食い逃げするのやめなよ~

疲れすぎて疲れを感じなくなったとか、腹が減りすぎて空腹を感じなくなったとかいう具合に、怒りすぎて怒りを感じなくなったのだろう。私は人の上に立つことには無縁のカースト最底辺人間だが、性分がどうにも学級委員長気質なのは自分で大いに認めるところである。理不尽なことが許せないとか正義感が強いと言うと聞こえがいいが、要は融通が利かない世渡り下手の典型だ。そして今までは自分の理解を超えた人間に対してやり場のない怒りを燃やし余計なストレスばかり抱え込んできたのだが、その火がフッと燃え尽きた。これはきっと幸せなことなのだと思う。私は言うなればクラスの問題児共を一喝するどころか逆に言い負かされて半べそ掻いているような無能学級委員長だったのだが、それが今になってようやっと委員長の職を解かれたというわけだ。来期は飼育委員やります。

みんなだいすきディストピア

他人に怒りを覚えるのは自分が他人に対して勝手に期待し(過ぎ)ているからだとしばしば言われるが、他人への期待を捨て去った人間がそこかしこに増殖されたらたまったもんじゃないと思う。あらゆる小さな問題は大目に見られ、あらゆる大きな問題は機械的に処理され、寛容という仮面を被った無秩序が跋扈し、鷹揚という着ぐるみを着た無関心がそこら中を歩き回る。学級委員長という職も消えるだろう。人はみな自らの内にのみ責任を求めだし、必死になって自分の内側をかき回しているうちにうっかり自分の心臓をえぐり出して死んでしまうのだ。ヒエー。狂った理性が倫理観を滅ぼしていく様はディストピア感があってなかなか興奮するが、そんなんはB級映画の範疇で勘弁願いたい。

世の中を自分の期待通りに動かすには自分の期待そのものを変質させること

自分に都合の良いように他人に期待するから怒りが生まれるのであれば、自分に都合の悪いことだけ他人に期待しておけばいいのだろうか。人は「誰それに対しては期待してないよ」と言うが、実際それは「期待がゼロである」というよりも、「負の事象を期待している」と表現したほうが正しいと思う。「あいつが皿洗いをすることを期待していない」と言うときは、「皿洗いをしないことを期待している」、もっと言えば「自分の期待はいつも正当であることの証明と相手に文句を言う口実欲しさにここでは皿洗いをしないことを期待している」のであって、期待通りに事が進めば「ほらやっぱり自分の期待は正しかった、あいつはクソ」となるわけだ。ここで興味深いのは、もし相手が自分の期待を裏切って皿洗いを始めたとしても、「なんで俺の期待を裏切って皿洗いをやるんだ!」と本気で怒り出す人はそうそういないということだ。「なんだ、たまにはやるじゃん」とちょっぴり感心するだけである。先程はああ言っておきながら、本心では「でもやっぱり皿洗いしてくれたらな~~してくれたら嬉しいのにな~~」と正の期待を抱いていた証拠ですね。いかなる時でも正の期待を完全に捨てきれない人間ちゃんはカワイイ。とはいえ基本的に良い期待であれ悪い期待であれ、自分の期待が裏切られるのは気持ち良いものではないので、自分の期待通りに事が進むよう「あいつが皿洗いをしないことを期待している」「よしんば皿洗いを始めたとしても皿を割ることを期待している」と都合良く期待の性質を変化させておく。すると世の中全部自分の期待通りだ。やったね。

自分の期待に応えたつもり

期待を裏切られ続けて疲弊するよりも、期待通りに物事が進んで「やっぱりね」と言う方が良い。「皿洗いしてくれると期待してたのに……」と落胆するよりも、「自分の期待通り皿洗いしてくれなかった、やっぱりね」と皮肉る方が自己肯定の足しになるからだ。この記事の前半は一昨日に書いたもので今日となっては自分が何を書きたかったのか分からず適当に話をくっつけたのだけど、一昨日の自分の期待に添えられたのであれば幸いである。

 

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シュレディンガーの迷惑についての覚書|眠すぎてここに書く事が思い浮かびません

考えるのはタダ

我が国ではついこの前元号が令和に変わったばかりだが、時代が時代であったならば3日おきに元号が改まってもおかしくない世界的物忌みムードである。気楽に外出も出来やしない。外出が出来ないということは当然自宅に篭ることになる。そして誰しもこう思うはずだ。なるべくお金をかけず、飽きることなく、有意義に時間を潰せるインドアな娯楽は無いものかと。老若男女貴賎国籍を問わず万人が成しうる最高にお手軽な娯楽といえば、そう……考えることである。このまま自宅待機を余儀なくされる人間が世界中で増えていけば、いずれ彼らの中から哲学者が現れるだろう。今回の記事では、「他人に迷惑をかけたかもしれないし、かけていないかもしれない」をテーマに考えようと思う。

「コミュ障」は自称してもいいことが無い

「他人に迷惑をかけたかもしれないし、かけていないかもしれない」。正確に言うと「他人が迷惑と思ったかもしれないし、思っていないかもしれない」になるのだが、まあどちらでも良かろう。相手の心を覗くまでは、迷惑をかけた状態とかけていない状態が50%ずつ存在するシュレディンガーの迷惑。私の如き生粋の陰キャはか弱い生き物なので三歩歩けば死因に当たるような日々を送っているのだが、このシュレディンガーの迷惑は数々の死因の中でも中心的位置を占めている。「他人に迷惑をかけたかもしれないし、かけていないかもしれない」という状態は、ぶっちゃけ「迷惑をかけた」状態より悪質である。自分をなだめすかして安心させようとする穏やかな自分と、自分に現実を直視させようとする冷酷な自分が自分の中で限界バトルしている。自分が自分を殴り、自分が自分に蹴りを入れ、それに自分が野次を飛ばす、自分に何一つ優しくない試合。頭の中で当時の映像と音声を延々リピートしながら何かにつけて自分と自分を戦わせている。「迷惑をかけていない自分」を諦めきれない意地汚さがある。さて、この問題において「かけた」か「かけていない」のどちらかに収束するためには、無論観測が必要である。相手の心を観測するのは不可能なので、相手から心を代弁する言葉を引き出さねばならない……おっとこれはどうしたことだろうか。相手から言葉を引き出すどころか相手に話しかけることすらしない。なんで?実際迷惑をかけていようがかけてなかろうが、「この間の件なんですけど、迷惑をおかけしたと思うのでお詫び申し上げたく……」と声をかければ良いだけの話ではないか。フーム、理由を聞けばコミュ障なので話しかける勇気がないと。自然消滅するまで自分の中でモヤモヤさせておくつもりですね。これは割と声を大にして言いたいのだが、仕事と謝罪の言い訳にコミュ障というワードを持ち込んではならない。コミュ障だから客と対面で話すのは嫌ですとか、コミュ障だから謝罪のために話しかけるの恥ずかしいですとか、そんなカワイイ言い訳がまかり通るものか。仕事と!謝罪に!コミュ障という言い訳を持ち込むな!ウオーッ!

自分の中に無い答えを自分の中で探そうとしない

陰の者にありがちな「他人に迷惑をかけたかもしれないし、かけていないかもしれない」症候群を緩和するのに必要なのは、他人に絶対迷惑をかけないぞと強く誓って注意深く行動することではなく、互いの迷惑を互いが許しあえる人間関係を構築することである。が、陰の者はこう考える。それが出来ないから自分は陰の者なのであって、ミスを笑って許せるような信頼関係を築くよりも、たった1つの些細な失敗さえも起こさぬようガチガチに気を張っていた方がよほど簡単だ、と。果たしてそうだろうか。これは普段から悪いことばかりしている不良少年がたった1つ良いことをしただけで持て囃される理論とは真逆で、普段から人に迷惑をかけるものかとそればかり考えそのように生きていると、たった1つ些細な迷惑をかけただけでそれが恐ろしい負債になってのしかかってくるというのに。全く同じミスなのにあの人は許されて、自分は許されなかった。それは往々にして人間関係の違いである。残酷なことだけれど。私も出来ることなら現実で誰とも関わらずクールにドライに生きていきたいものだが、その一方で回避できるシュレディンガーの迷惑は回避したいという強い願望もある。迷惑をかけたかもしれないし、かけていないかもしれないという不安で帰宅後に葛藤したくない。許されたいから許す。許すという行為を許してもらえるような関係を作る。他人の気持ちとかいうこの世で1番考えるだけ無駄なものについて長々考えたくない。他人の気持ちが甲か乙かそれとも丙かなどと延々考えていると、確実に精神をやられていく。そんなもの、自分の中に答えがあるわけないじゃないか。

謝罪にだけは毎回命を懸ける女のぼやき

ええとつまり今回言いたかったのは、自分の中にはあるはずのない答えを延々探そうとするな死ぬぞということと、そもそもそんな無駄な探索を減らすために人と人との信頼関係があるのだということと、真面目な場でコミュ障を言い訳に持ち込むなということと、最後に……遅刻したら一言謝罪をしましょうということだ。頻繁に遅刻してくる癖に出勤してからは一言も謝罪しない人がいる。あの人はこう、自分がかけた迷惑について帰宅後に悶々と考えたりすることが無いのだろうか、といつも思ってしまう。「他人迷惑をかけたかもしれないし、かけていないかもしれない」という理由で毎日悶々としている自分がおバカに見えるではないか。ここらで自分で出した結論に則って、「あの人も実は悶々としているかもしれないし、していないかもしれない」という無駄な探索はしないことにする。閉店ガラガラ。

 

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「帰りたい」入門編についての覚書|死んだ後にも「死にたい」とか思ってそう

あんなに一緒だったのに

この世には2種類の「帰りたい」がある。帰った後に楽しみが待っている「帰りたい」と、帰った後に楽しみが待っていない「帰りたい」である。楽しい方へ駆け寄ろうとすることと、辛い方から逃げ出そうとすることとの間には、夕飯に熊を食べることと、自分が熊の夕飯になることくらいの違いがある。かの有名な全日本もう帰りたい協会もいずれ、全日本やりたいことがあるのでもう帰りたい協会と全日本仕事が辛すぎるのでもう帰りたい協会に分裂し、理念や信条の致命的な不一致から激しい対立を余儀なくされ、第一次もう帰り大戦が始まるのも時間の問題だろう。おうちに帰りたい気持ちはどちらも同じはず、けれども両者の間には決して埋まることのない溝がある。あんなに一緒だったのに、夕暮れはもう違う色。せめてこの月明かりの下で、静かな残業を。

労働後にひと遊び出来る人を化け物か何かだと思っている

全日本仕事が辛すぎるのでもう帰りたい協会の人間は、体力と精神力を消耗しきっているのがデフォルトなので、一刻も早く帰りたいがその後でひと遊びするなんてとんでもない、そんなことをしたら本当に死んでしまうと思っている。一方で全日本やりたいことがあるのでもう帰りたい協会の人間は、なんとまあ驚くべきことに、労働で消耗した体力と精神力を、労働後のひと遊びによって回復させるのである。元々同じ協会に所属する同じ人間だったはずなのに、どうしてこれほどの差が生まれてしまったのか。その上残酷なことに、全日本やりたいことがあるのでもう帰りたい協会の人間が帰宅後に何もせずベッドへ一直線するのは簡単なのに、全日本仕事が辛すぎるのでもう帰りたい協会の人間が退勤後に居酒屋で一杯引っ掛けるのにはとてつもない困難が伴う。現に私が労働後にやれることなんて、コンビニに寄るか、ブログを書くか、ニコニコ動画を見るくらいしかないのだ。結構あるな。

「つまらない」に負けるんじゃない

オチが思いつかないので話を少し別のことに移そう。「つまらない」という感情は全てを殺す件について。今週は平凡でつまらないなとか今月はイベントが無くてつまらないなというくらいならまだいいとして、自分の人生がつまらないなと感じ始めたらそれは比喩ではなく現実に殺されかけているのである。本来なら何か楽しいことをしていてもいいはずの時間に「つまらない」と感じることは、「つまらない」の殺意が本気を出している証拠である。だってほら、つまらないならなんかしたらいいじゃん。好きな漫画を読んだり、好きな音楽を聴いたり、好きな番組を見ればいいじゃん。コンビニに行って酒とつまみでも買ってくればいいじゃん。カラオケにでも行けばいいじゃん。つまらない状態を脱したいと本気で思ってるなら、なんかすればいいじゃん。小さな子供が今のごっこ遊びに飽きて次の遊びを考える時のように、次の娯楽を考えればいいのである。幼い頃は確かに「つまらないなあ、次は何しようかな」と考えることが出来たはずだ。なのに今と来たら、「つまらないなあ、つまらないなあ、つまらないなあ……」とそればかり延々ループしている。幼い子供の方がよっぽど生きるのが上手い。人間がじょうず、人間がじょうず。

人生は……ラーメン

理想の帰宅とは、あったかハイムが待っていて、クリアアサヒが家で冷えているような状態のことだ。ところが現状の帰宅と来たら、あったかハイムがキンキンに冷えているし、クリアアサヒが家で煮えたぎっている。帰った後にやるべき雑事が山積みなのも、楽しみが何一つ無いのも本当にどうにかしたい。つまらない労働の後に追いつまらないをするのをやめたい。人生ラーメン、つまらない抜きの、楽しいマシマシで。

 

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散々な日常と散々な思考についての覚書|世の中も私も私に優しくあれ

か゛わ゛い゛い゛な゛あ゛ト゛ゥ゛イ゛ー゛ク゛く゛ん゛

人生で初めて確定申告書を作った。インターネットの確定申告書作成コーナーを利用して必要事項を入力し、打ち込んだ金額を念入りに確認してから、pdfデータをUSBに入れ、コンビニでプリントアウトし、まだホカホカと印刷熱の残る数枚の書類に軽く目を通したあと、それをすぐさまクシャクシャに丸め、鞄の底にぶち込んで肩をすくめた。氏名欄のフリガナが「苗字 苗字」になっていたからである。つまり「ハグロ ハグロ」となっていた。なんでやねん。トゥイーク・トゥイークみたいなノリをやめろ。手書き修正も出来るようだが、あまりにも間抜けなのでまた作り直すことに決めた。収入金額等の入力に際してはあんなに細心の注意を払ったのに、最も肝心な所で詰めが甘い。まるで人生みたいですね。

生き甲斐のためなら死んでもいいわ

なんやかんやと毟り取られる金額を眺めながら思う。年金を受け取る年齢まで生き延びてしまったらどうしよう。毟り取られた金を取り返してやりたいのは山々だが、その為だけに長生きしたいかというのはまた別問題である。老後のための貯金と言いながらも、なるべく老後が来て欲しくないと思っている。将来に備えてと口癖のように唱えながらも、なるべく将来が来ないことを望んでいる。これは輝かしい未来のために用いる金ではなく、ヨボヨボの自分がボロボロのアパートに住んでパサパサの飯を食うための金である。慎ましい収入の中から金を貯めることだけが生き甲斐と言っても過言ではないのだが、近頃は生き甲斐のために死にそうになっている。馬鹿げた話だよ、全く。

良いことが続く権利も悪いことが続かない権利もあるはずなんだがなあ

良いことが起こると「どうせ長続きしないんだから」と悲観的に考え、悪いことが起こると「この先ずっとこのままだったらどうしよう」と悲観的に考える。どう転んでも悪い方向にしか考えられない。頭の片隅では良くありたいと願いながらも、悪いところに収まるのが己の定位置であるように思いこみ、良いところに収まることがないよう自分の思考と行動を捻じ曲げている。あらかじめ自分の手でグリーン上のホールを全て塞ぎ、辺り一面を砂場と池だらけにしておいてから、今日こそはベストスコアを狙うぞと息巻いているようなものだ。良いことは続かないと思い込み、敢えて良いことが続かないように自分の人生を持っていく。悪いことは永久に続くと思い込み、敢えて悪いことが続くように自分の人生を持っていく。良いことを続ける努力をしないし、悪いことを続かせない努力もしない。ウーン、それって本当に良くありたいと思っているのか?

死ぬかと思った(こなみ)

実は一昨日から2日連続で首から背中にかけて酷く寝違えた。特に2日目の昨日はもう本当に死ぬかと思うほどの激痛に襲われ、それでも歯を食いしばって労働し、良いこと――この場合痛みがすぐに治まること――については一切考えず、悪いこと――この場合首と背中と肩の痛みが何日も何ヶ月も何年も続くこと――ばかり考えて、この先の生活に絶望すら感じていたが、今日には回復してケロッとした顔で働いた。はーアホくさ。私自身よりも悪いことの方がよっぽど私に対して優しいじゃないか。私は私に対して何の処置も施してやらなかったのに、痛みは私に対して「まあ痛いのは1日だけで勘弁してやるよ」と言ってくれたのだ。私は私の苦痛を緩和するための薬さえ買ってやらなかった!私は私が回復するビジョンさえ思い描いてやらなかった!私は私に「きっと治るから大丈夫」という声さえ掛けてやらなかった!この女、何たる畜生!私に起こった悪いことですら私に対して優しくしてくれるのに、どうして私は私に対して優しく出来ないのだろうか。私の敵は私。そして痛みが引いた今日はマジモンのヤクザみたいな客が店内で大暴れして警察沙汰になった。今週の私ちょっと散々すぎませんか?

無い警鐘は鳴らせない

しかしまあなんだ、最近どうにもネガティブ慣れしてしまった自分を感じて、それではいかんぞと鳴らすための警鐘を探しているのだけれど、私の警鐘、どっかに落としてきたみたい。私の警鐘を拾った方は交番に届けてください。

 

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