珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

健康で文化的な最低限度のコーヒーについての覚書|衣、食、住、趣

コーヒーを淹れるアレにフィルター乗っけて粉ザパーしてお湯ドバーして美味しいコーヒーが出来上がるんだからそれでいいじゃない

私は毎日コーヒーを浴びるように飲むが、コーヒーに関しては何も知らない。専門知識が無いのはもとより、ブラジル豆が苦いのか酸っぱいのかさえ知らない。それくらい調べればすぐに分かるだろうが3日で忘れると思う。毎日使っているくせに未だに「ドリッパー」という名称がスムーズに出てこない。「コーヒーを淹れるアレ」とか「三角じょうごみたいなやつ」とか言っている。それでも毎日コーヒーを浴びるように飲んでいる。また、私は毎日洋楽を浴びるように聴くが、洋楽に関しては何も知らない。好きな音楽グループは沢山あるが、なんということでしょう、メンバーの名前を誰ひとりとして知らない。Dではじまるあのグループ、Iではじまるあのグループ、Tではじまるあのグループ、ハチャメチャに好きなのだが、個人名が誰ひとりとして出てこない。自分でもどうかと思う。流石にソロ歌手の名前は分かる。けどグループとなると個人名を誰ひとりとして挙げることが出来ない。それでも毎日洋楽を浴びるように聴いている。ほら、米作りに興味がなくとも我々は毎日米を食うし、パン作りに関心がなくとも我々は毎日パンを食うではないか。私はそれらの同列延長上にコーヒーを洋楽を置いているわけだ。私にとって米やパンが趣味ではないように、コーヒーも洋楽もきっと趣味ではない。 趣味ではない・・・・・・そんなんだからいつまで経っても「コーヒーを淹れるアレ」から卒業出来ないんじゃなくて?

 

衣食住趣

趣味というものは通常、最低限度の衣食住の上に置かれるものだ。私の場合、最低限度の衣食住と同列に最低限度の”シュ ”を並べてしまうせいで、趣味と成り得ないのだ。一般的に、趣味とは人生の追加コンテンツである。暮らしを豊かにするための追加コンテンツとして置かれた趣味は、プレイヤーのカスタマイズ次第で無限に成長する。それ自体は衣食住も同じである。追加コンテンツとしての衣食住はいくらでも成長の余地を残している。無論その一方、最低限度の衣食住は成長しない。最低限度の衣食住が必要以上に成長してしまったら、それらは最早「最低限度」と呼ばれない。追加コンテンツとしての衣食住である。ブランド物の服やアクセサリー、お菓子やおつまみなどの嗜好品、3LDKのマンションや庭付きの物件、これらは全て追加コンテンツである。であるからして、最低限度の”趣”も成長しない。コーヒーを飲ませて頂くだけで満足。楽曲を聴かせて頂くだけで十分。コーヒーを淹れる技術が欲しいなんて贅沢言いませんし、その歌手の名前や経歴や出演情報が知りたいなんて欲は起こしません。……なんでわざわざそんなところに、”趣”を置くんですかね。

 

県民共済総合保障Ⅰ型(1000円)加入者の声

なんでわざわざそんなところに”趣”を置くかって、答えは単純、そこに置いときゃ安心安全、ついでにコスパも良いからである。最低限の衣食住はその時点で既に最低限であるが故に切り捨てられない、ある意味で安全地帯とも言える。更に最低限であるが故に費用も大してかからない。少ない掛け金で保障が付けられる県民共済みたいなものですね。コーヒーも洋楽も人生から切り捨てたくない、けれどお金もエネルギーもそんなに沢山かけられない、だから最低限の衣食住の隣に並べて、大きく育てられない代わりに切り捨てられる危険も少ない、少しのお金とエネルギーで長期間運用可能、そんなローリスクローリターン銘柄としてやっていこう、というわけだ。「趣味」を株とするならば、”趣”は投資信託とでもしようか。私の場合、投信よりもむしろ国債に近いけれど。ローリスク、ローローリターン。

 

切り捨てられた”味”の気持ちも考えてどうぞ

 というわけで、前々より「趣味が無い」だの「趣味が欲しい」だの言っていたのは、嘘ではない。「趣味」は無い。ただし、”シュ ”はある。「趣味」をやるかどうかは完全に任意なわけだが、自分はどうにも、任意のものを続けられないタチなのだ。一方で”趣”は必須科目に近い。生きていく上で最低限度のメシを食わねばならないのと同じで、生きていくためには最低限度のそれをやらねばならぬ。生きていくためにコーヒー飲まなきゃ。生きていくために洋楽聴かなきゃ。もしかすると、私がただ習慣や惰性や強迫観念に囚われてそれらをやっているだけのように見えるかもしれない。けれどもやってる当人からすれば、これくらいの分量が丁度いいのだ。今のところは、生きていくのに必要な最低限度のコーヒーと、最低限度の洋楽。それだけあれば十分なのである。

 

 

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ゆるい靴紐とゆるい人生についての覚書|人間ゆるくたっていいんだよ腹以外は

下向いて歩くに限る

靴紐がゆるんでいる状態それ自体には何のメリットも無いわけだが、ちょっと考えてみると、ほらアレだ、落ちている小銭を自然なモーションで拾うときに役に立つ。靴紐がゆるんでたんだ。そう、靴紐がゆるんで今にも解けそうだった。だから結び直さなきゃあいけない。ウン。靴紐がゆるんだ状態で歩くのは危険だからな。ウン。靴紐を結ぶためにはその場でしゃがみこまなきゃいけないし、ちょいと失礼。ってたまたましゃがみこんだたまたま足元のたまたま地面にたまたま100円玉がたまたま落ちてるじゃないか~~~ウワ~~~今日はツイてるな~~~~~~

 

頑張りたいやつだけ頑張ってくれ

ゆるく、だらしなく、なまぬるく、いくじなく、なさけなく、あたかも今にも解けそうな靴紐のように、ただただ自分が自分のお荷物でしかないような状態で生きていても、その性質が全く役に立たないなんてことはなくて、人が道端に落ちている小銭を発見する確率くらいには、きっと何かの役に立つこともあるはずだ。いつかそれが何かの役に立つと信じながら、ゆるく生きたい。だらしなく生きたい。なまぬるく生きたい。いくじなく生きたい。なさけなく生きたい。上を向き、前を見据えてキリキリ歩くことにはもう飽きてしまったんだ。そう、飽きたんだ。疲れたんじゃない。自棄っぱちじゃない。諦めたんじゃない。ただ単純に飽きたから、次はこういう生き方もいいだろってんで、へなちょこな道を選ぶんだ。

 

ソビエトロシアでは手帳があなたを管理する

自分で建てた目標を1ヶ月も経たないうちに破棄してしまっても、自分で誓った約束を1週間も経たないうちに破ってしまっても、自分で決めた規則を24時間も経たないうちに違反してしまっても、それでいいじゃないか。だってへなちょこなんだもの。だいいち、目標とか約束とか規則なんかクソ喰らえだ。自分が自分に対して課した目標とか約束とか規則なんかクソ喰らえだ。そういうものを課した方がうまくやれる人間なら大いにやるがいい。うまくやれない人間なら、そんなもの一切合切捨てるがいい。壁に貼った目標をビリビリに破いて捨てろ!来年の手帳なんか古紙回収に出しちまえ!記録系アプリを今すぐアンインストールしろ!カレンダーに印付けるのを今すぐやめろ!……まあそんなところで、俺はお前を成長させることが出来ると言い張る無機物共と全て手を切ることにした。来年こそは手帳をつけようと思っていたが、やめた。ゆるくてだらしなくてなまぬるくていくじなくてなさけない人間は手帳なんかつけないと思ったからだ。手帳の支配下に落ちる前に、予めバリアを張っておくことにする。ふふん。これで金輪際、手帳は私を管理できまい。

 

そのひぐらし

取るに足らない物事について、今日を超えたその先を考えるのをよそう。例えば……ウーン……同じ商品でもいつ買ったらより多くポイントが貰えるだろうとか、1週間分の食料を備蓄しようと思えばどのくらいの量を買えばいいだろうとか、あといくつ寝ると給料日だろうとか。そういうことは全て私の手の届かないところにあるものであって、手の届くところのもので全て賄うことにしよう。明日のことを今日思い煩ってはならないと聖書にも書いてある。学生時代の朝の祈りでしこたま聞かされた。ポチると決心した時にポチるし、お腹が空いて辛抱ならんと思った時にスーパーへ行くし、給料日?そんなものはないという精神でいこう。アッ「よそう」とか「いこう」とか言っちゃだめだな。それではいずれ目標に化けてしまう。そうじゃなくて、「よしてもいいし、よさなくてもいいが、2020年11月17日時点の私的にはよしたほうがいいと思っているので、以降の自分はその旨を参考にされたし」くらいにしておこう。ウーン、目も当てられないほどふわふわしている。まあそういうところが、ゆるくてだらしなくてなまぬるくていくじなくてなさけない人間らしくて、私は好きだけどね。

 

まあこれでいいです

それで、私は一体何の話をしてたんだっけ

 

これでいいんだってば

まあいっか

 

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新ジャンル:愚痴ポエムについての覚書|第一回知的に愚痴ろうの会(なげやり)

限界接客労働者の1度でいいから言ってみたい台詞

・お客様の頭の悪さをカバーするだけの手腕が不足しておりました申し訳ございません
・お客様じゃなかったら殺してました
・失礼ですがお母さんかお父さんに代わって頂けますか?
・私あと30分で上がりですのでその時改めて無関係な他人同士として喧嘩しませんか
・フッ、おもしれー客
・今の時間は資格持ちのスタッフが不在でして要介護のお客様はお断りしております
・ふりがな付きの案内表をご用意致しましょうか?
・トイレ以外の場所でうんこしないで頂けます?
・働いたことあります?
・理性ありますか?

 

うやむやにされるストレスたち

私はアホだが、どこか合理主義というか、損得勘定に非常にシビアな面があるので、度々こう思う。「悪意の無い相手から受けた多大なるストレスという被害に対し、その被害額を一体どこに請求すれば良いのだろう」と。例えば、非常に動作が緩慢なおっとりしたお客様が来店して、その客に一切の悪気は無いのだが、動作はおせーわ行列は出来るわ後ろの客から野次が飛んでくるわ後ろの客に何故か(何故か!)こちらが申し訳ございませんとぺこぺこ頭を下げねばならぬわで甚大な精神的ストレスを被ったとして、その被った被害に関して、我々は一体どこに訴え出れば良いのだろうか、ということである。勿論「訴える」というのは比喩的な意味合いでである。本気で訴訟しようというのではない。世界中で0.1秒に1回は発生しているであろうこういった事例において、99%の場合は「我慢」や「帳消し行為」によってうやむやにされる。その後で人に愚痴ったり、SNSに書き散らしたり、モノに当たったり、頭を振って忘れようとしたり、帰宅後に酒を飲むなどして、帳消ししようと努める。……じゃあ、その「努める」ためのエネルギーはどこから捻出するのか?もしくはどこへ請求するのか?それはズバリ「ストレスそのもの」からである。「ストレスそのものから生まれる怒りのエネルギー」によって、我々は怒るのである。なるほど、ストレスはエネルギー源だ。ウィダーを飲んだりカロリーメイトを食うよりも、よっぽど経済的でお手軽なエネルギー補給だなあ。

 

行為を憎んで、人を憎むな

「悪意なきストレス発生源」は死ぬほど厄介だ。もしそこに明確な悪意があれば、それに対して直接、正当に、被害額の請求をすることが出来る。一方で我々は、「悪意なきストレス発生源」に対し、どのような態度で望めば良いのだろう。舌打ちする?睨みつける?いやいやどんなにガンを飛ばしたところで、相手が賠償金を支払ってくれるわけでもなかろうに。《我々にはどこまで請求権がある?》「悪意なき」というと何だか敷居が高いので、言葉を変えてみようか。「自覚なきストレス発生源」「自制不可能なストレス発生源」「歩くストレス発生源」「お前の存在がストレス発生源」「お前人をイライラさせることに関しては一丁前だな」などと……おお!おお!これ以上はいけない。これ以上はいけない!そう、我々は、「悪意なきストレス発生源」たる存在者に対して、いつでも攻撃する用意が出来ている。そう、攻撃しようと思えば、いつでも、どこでも、誰でもさ。なんてこった!相手の「悪意なき」という性質を我々に都合よくこねくり回して、「悪」に仕立てる用意がいつでも、どこでも、誰でも、とっくの昔に出来ている。だから我々は……理性のある我々は、出来る限り行為を憎んで、人を憎まぬようにせねばなるまい。

 

D(道徳的に)K(考えて)

我々が社会の中で生きている限り、「悪意なきストレス発生源」に対して賠償請求する権利は否定される。そう、道徳的に。人が社会の道徳に逆らって「ええい知ったことか、俺はもう我慢ならん、いいか、お前の存在が~」とでも言おうものなら、道徳に基づいて非難されるのだ。我々の中で、「悪意なきストレス発生源」となる可能性を有していない人間などいるだろうか?いるはずもない。急いでいる人の前をちょっとうっかり邪魔して塞いでしまって、それで急いでいる人をイライラさせたのなら、それはもう急いでいる人にとっては「悪意なきストレス発生源」だ。でも仕方ないじゃない。後ろに目は付いてないんだもの。後ろから急いでいる人が来ているなんて知りようがないんだもの。後ろから来ている人が急いでいるなんて知りようがないんだもの。そんなことでいちいち訴訟されてたらいくつ裁判所があっても足りないわ。けど私が逆の立場なら……「訴訟!」って言っちゃうかもね。

 

キリキリしてるのは胃の方なんですが

よっぽど接客が好きでかつ大海原のような広い心を持っている奴でもない限り、特に、私のような大の接客嫌いの接客アルバイターみたいな奴にとっては、客なんてものは大抵の場合「悪意なきストレス発生源」なのだ。そういうものなのだ。ごくまれに悪意がある奴もいるけれど、99.9%の客は、そこに1ミリの悪意もなく、ただ何らかの偶然によって、不幸にも、店員をイライラさせたりしているだけなのだ。ウム。私は頭で分かっているね?分かっているともさ。だから今日も「訴訟!」って言いたいのを我慢してキリキリ働いているわけだ。だって相手に悪意は無いわけだからね。相手に悪意が無ければ無いだけ、どこにも訴えようのないストレスが溜まるのさ。悪意がある相手に対して名指して訴えられるような性質のストレスとは別にね。そう、訴えられないストレスは別腹。

 

 

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重篤な対人ダブルスタンダードについての覚書|「人」について書くときの私は生き生きしているな

はい、私は阿呆です

結局、私は人間をどうしたいのか分からぬのだ。実現可能であるかはさておき、人間というものを完全に遮断して、猫さんや鳥さんやその他可愛い生き物と一緒にキャッキャウフフしながら生きていきたいのか、それとも……それとも何だろう。「それとも」の先が出てこない。深夜のネオン、歩く人影、店のガラスを透かして見れば、踊る阿呆に観る阿呆、歩く阿呆に走る阿呆、買う阿呆に売る阿呆、笑う阿呆に泣く阿呆、とにかく世の中阿呆だらけに見えて本当に嫌になるのだが、その一方でバイト先で働く者同士、所謂「身内」に対してはその阿呆フィルターが微塵も作用しないところが不思議なものだ。名も知らぬ赤の他人はあんなにも阿呆に見えるのに。「身内」に関して言えば、ただちょっと名前を知っていて、年齢を知っていて、性格を知っていて、でもそれ以上のことはほとんど何も知らなくて、本当にただそれだけの違いにも関わらず、「身内」のバイトくんバイトちゃんのことを阿呆だなどと思ったことは1度も無い。こいつアホやなと思ったことはあるけれど。勿論、読者諸賢を阿呆と思ったことも1度も無い。そもそも読者諸賢については名前はおろか素性のほとんどを知らないのだからね。だから、人類皆阿呆だなどと大それたことは口が裂けても言えない。けれども、いつか全てをぶちまけてしまいたいという願望が少なからずあるのだろう。赤の他人は勿論、リアル身内も、バイトくんバイトちゃんのことも、この際全てをまるめてぽいして、「人類皆阿呆だ!」と大声で叫びたい自分がいるのだろう。ええー、ほんとにござるかぁ?

 

学生時代に先輩らしい先輩や後輩らしい後輩を持った経験が無いから浮かれてるだけだと思う(名推理)

人の相手をするのが嫌だ、そもそも赤の他人の機嫌を赤の他人なんかが取るべきではない、接客業は本来人間がやるような仕事ではない、全部ペッパーくんにやらせろ、国家予算全てを接客ロボットの開発に注ぎ込め、全人類コミュニケーションをやめろ、などと事あるごとに脳内でほざいているわりには、「身内」に対してはアレコレ話したくなる。アレコレ聞いて欲しくなる。我ながら酷いダブルスタンダードだ。こちらから「聞いてくださいよ~」と言うのも好きだし、逆に向こうから「聞いてくださいよ~」と言われるのも好きだ。アレ、私は「聞いてくださいよ~」が好きなのか?タイピングしていてびっくりした。私は「聞いてくださいよ~」が好きらしい。人の目を見て話すのが苦手だし、面白い話の1つも出来ないし、気の利いた返事も出来ない身のくせして、「聞いてくださいよ~」が好きなのか。そうか。

 

ダブルスタンダードは人間精神の切り取り線なのでそこにハサミを入れると人は真っ二つになって死ぬ

まあ結局、考えなくても分かることなのだ。現実における赤の他人の相手はクソイライラするが、「身内」の相手はディ・モールト(非常に)良し。当然だ。誰だってそうだ。それが私の場合、日頃の「現実における赤の他人の相手はクソイライラする」という部分があまりにもデカすぎる故に、「『身内』の相手はディ・モールト(非常に)良し」という部分がハチャメチャに効くというか、尊くて、よさみが深すぎて、頭がパーンするのだ。語彙力もパーンした。飢餓状態の人が急に沢山食べるとヤバイみたいなアレなのかもしれない。しかしそんな中でも、「現実における赤の他人の相手はクソイライラする」と考える私が死んだわけではない。奴はまだ生きているのだ。てなわけで、「人類皆阿呆だ」と叫ぶ私と「そんなことないですよ、良い人もいますよ」と諭す私が同時に存在するから、頭が完全にバグってしまう。私は人の相手をしてイライラしたいのかもしれないし、人の相手をしてウキウキしたいのかもしれない。間違いなく両方だ。イライラもしたいし、ウキウキもしたい。自分の中の攻撃的な考えを正当化するためにイライラしたい一方で、自分の中の穏やかな考えを正当化するためにウキウキしたいイライラとウキウキは両立出来ないのに、イライラしたい私とウキウキしたい私は共存している。ウーン(ここで左右にちぎれて死ぬ)

 

1本の記事をこんな短時間でグワーッと書き上げられたのは久しぶりだ やっぱり私は人が好きなのかもしれないね

「お前らなんて大嫌いだ」と叫びたい私を生かしてやることは出来ないが、殺してやることも出来ない。「お前らのこと好きだよ」と叫びたい私を殺してやることは出来ないが、生かしてやることも出来ない。人間の相手は難しい。来世は人間の相手をしなくてもいい何かになろう。

 

 

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やっと終わった線、もう嫌だ経由、おうち帰りたい行きの列車についての覚書|世紀末な陸の旅をお楽しみください

とはいえ母校の学校行事をめちゃくちゃにした新校長は未だに許してない

良き人生の終わり方とは、一言で言い表すならば「後悔と未練が無いこと」、これに尽きるだろう。ところでこの「後悔と未練が無いこと」にも2タイプあって、「やるべきこともやりたいことも全てやった、もう思い残すことはない」というタイプと、「やっとこのクソみてえな苦行の日々から解放されるぜ、Foo↑」というタイプに分けられる。現実で本当に後者のような逝き方が出来るかはさておき。人生ではスケールがデカすぎるなら、高校生活最後の運動会、もしくは文化祭を考えてみてほしい。高校最後の体育祭文化祭なんて、下手すれば人生最後の体育祭文化祭である。それら二大行事を「やりきった」と考えるか、「やっと終わった」と考えるか。私は間違いなく後者の人間なのだが、恐らく人生においても(仮に後悔と未練無く逝けるのであれば)後者の道をゆくのだろう。

 ※章題の件ですが、母校の文化祭は大学の学園祭かな?というくらい生徒保護者一丸となって出し物売り物花火にライブと、最早地域の祭りと言っても過言ではない程のやりたい放題が魅力だったのに、新しい校長の方針により「出店をはじめとする金銭のやり取り禁止、他校生の入場禁止、総合学習で調べたことや美術の授業作品を展示し午前はそれを見て回る、午後は体育館で全クラスの演劇や合唱を観賞」する文化祭になり果てました。

 

嫌なミルフィーユだ

思えば日々の暮らしのなかでも、「やりきった」に該当することは皆無に等しく、逆に「やっと終わった」を重ねて重ねてひたすら重ねたもので人生が織りあがっている。家事が「やっと終わった」、準備が「やっと終わった」、通勤時間が「やっと終わった」、仕事の前半戦が「やっと終わった」、仕事の後半戦が「やっと終わった」、買い物が「やっと終わった」、帰宅が「やっと終わった」、再び家事が「やっと終わった」、1日が「やっと終わった」、そして次の1日が「もう始まる」毎日の「やっと終わった」が宇宙まで到達したその時、私は「やっと終わった」と呟きながら溜め息を吐き出して死ぬのだ。シェフの気まぐれ人生、虚無ース仕立て、忍耐と失意を添えて。

 

分岐器ぶっ壊れてっから

「やっと終わった」から「やりきった」に乗り換えるには、人生あまりにも乗り換え駅が少なすぎる。「やっと終わった」線の列車に乗り込んだが最後、下ろしてくれと泣いて喚いて緊急停止ボタンを連打しようとも、そう簡単には停まってくれない。「やりきった」線への乗り換え駅は、人生にある無数の駅の中でほんのひと握りしかない。生きているうちにその駅に停車できるかどうかはまさに運ゲーである。「やっと終わった」線の列車の中の時間は、「やりきった」線の列車の中の時間よりも数倍遅く流れる。逆浦島太郎である。楽しい時間は一瞬で終わるが、辛い時間はいつまで経っても終わりが見えてこない。いや、流れる時間が遅いというよりも、そもそも列車自体がトロトロ走っているのでは?急いどんのよこっちは。今日のノルマはざっと30駅、まだ2駅しか通ってないじゃないのさ。早くあの駅に着いて、この駅に着いて、その駅に着いて、あれが終わって、これが終わって、それが終わって、あれもこれもそれもあれもこれもそれもあれもこれもそれも早く早く早く早く終わってくれなきゃ困るんだよ!じゃなきゃいつまで経っても今日が終わらないだろ!人生が終わらないだろ!いつ終゛わるんだよ俺゛の人生はよ゛お!

 

人生きさらぎ駅

 ……などということを考えながら私が普段生きているのか、それともいつものしがない思索に過ぎないのかは読者諸賢のご想像にお任せしよう。にしてもアレ、現実で列車を乗り間違えたところで数十分、どんなに長くても数時間程度のロスで済むわけだが、人生の列車を乗り間違えたら、数時間どころのロスじゃ済まないところがね、もうね。ガタンゴトーン。

 

 

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