珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

コンセントレーション¥0についての覚書|うちの集中力知りませんか

塩と砂糖に関しては賞味期限がないので尊敬してる

やばい。私の集中力が集中してない。集中力が少ないとか低いとかいう次元じゃない。集中力が自身の役割を完全に放棄している。例えるなら、塩が自身のあるべき味を放棄して勝手に甘くなったり酸っぱくなったりしているような感じだ。塩が塩気してないのだ。塩が塩気をやらなかったら一体全体誰が塩気をやるというのか。それと同じで、集中力が集中をやらなかったらいったい誰が集中をやるというのか。集中力らしきものがそこに居る気配は確かに感じるのだが……イヤ、そこに居るのは本当に私の集中力なのか?あの野郎、さては身代わり置いて逃げやがったな。人は集中力抜きで集中できるのだろうか?もしもこれが漫画だったら、窮地に追い込まれた主人公が覚醒して集中力の”先”へ行ったりするのだろうけど……集中力の”先”って、どうやって行くんだろう?鬼滅の刃を読んだら分かるかな?

 

もうどうにでもな~る

集中力の集中離れが進んだらどうなるか。自分の中で「どうでもいいんじゃない?」という諦念と、「どうにかなるんじゃない?」という楽観が同時に台頭してくる。同時にだ。塩が塩気を失っていくように集中力が集中を失って、止まった時間の中に投げ出されたような心地になって、思考が早退する代わりに肉体が残業する。頭じゃなんも考えちゃいないのだが、身体がルーチンワークを覚えてるってんで、まあそれならなんとかなるんじゃないのかい、知らんけど、といった具合。そうそう、所詮集中力なんてあったらいいな程度の代物であって、最終的になんとか形になりさえすればそれでいいのよ。それどころかむしろ集中力が過剰に働いてるせいで頭がくたくたになることだってあるだろう。稀によくあるだろう。ウン。そんな御託だってどうだっていいことなのだ。こうやって思いついたままの言葉をポンポン並べていけば、記事の1本くらい、どうにかなるでしょうよ。

 

忙しかったら忙しかったで文句言うだろ!

夜勤で8時間も9時間も働いてると、最後の方は頭がぼうっとなっていけない。人の出が減って、客も減って、厄介な客も減って、薄気味悪いほどの平和が店内に充満している。あれほど焦がれていた平和が得体の知れない怪物に見える。たまには、本当にたまには、昔の忙しさが戻ってきて欲しいと思う。もちろん、忙しさといっても健康的な忙しさであってほしい。昨日は客のおっさんが朝っぱらから店内で漏らしたとかで、そこからなんやかんやあって警察と救急を呼ぶ騒ぎにまで発展したと聞いたが、そういう忙しさじゃなくて。「どうでもいいんじゃない?」「どうにかなるんじゃない?」を真正面から切り殺せるくらいの、「どうでもよくはないし、どうにかしない限りはどうにもならんわい」という強い刃が欲しい。この刃の名前は一体なんというのだろう。責任感?タフネス?現実主義?まあなんだっていい……

 

やることがないあいだはずっと何かを忘れているような心地がして気持ち悪いんじゃ

そもそもよく考えたら、私が集中してようがしていまいが給料は変わらないのだ。じゃあ、最低限の仕事は覚えている身体の方に任せて、頭はほどほどにサボっておくのが賢いやり方じゃないか。そうだ、私の集中に価値はない。私の集中が時給を底上げすることはない。……とはいうものの、私のように、何かにつけてキリキリやらないと気が済まないようなタイプの人間にとっては、散漫の方が何倍も健康によくないというのがまたタチが悪い。退屈、手持ち無沙汰、上の空、昼あんどん、ああもう憎たらしい。私の集中力、頼むから帰ってきてくれ。私の集中を返してくれ。

 

 

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余事象の海であっぷあっぷする覚書|「する」に短し「しない」に長し

数学を学んでおくと将来ブログを書くとき役に立つらしい

人生の進め方の基本はごく簡単である。「する」「しない」か。人の生涯は「する」と「しない」で構成されている。なるほど自分で言っといてなんだが単純明快で実に分かりやすいと思う。ここでは便宜上、人生が全事象Ω、「する」が事象A、「しない」が事象Aの余事象、とでもしておこうか(図1)。よくよく考えればそうはならんやろという気がしないでもないが、要するにあの図を使いたいだけなので勘弁してほしい。全事象を表す長方形の中に事象Aを表す円がぷかぷか浮いているあの図を。もちろん、「する」という事象Aこそ人生であるとして、「しない」という余事象のことをきれいさっぱり切り捨てたっていいのだが(図2)、私はこの余事象にこそ味わいがあると思うのだ。余事象ってなんか聞いたことあるけどなんだっけと思った方のために置いておきます。

univ-juken.com

 

つまりこういうことだってばよ

図1

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図2

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どういうことだってばよ

 

神様なら手本を見せてくれますよね?

生き物にとって沢山のことをいっぺんにすることはそうそう出来るものではないが、反対に沢山のことをいっぺんにしないことは、朝飯の手をひねるカッパのよっちゃんくらい簡単なのである。料理をすることと読書をすることとサッカーをすることをいっぺんにやるのはまこと至難の技であるが、料理をしないことと読書をしないこととサッカーをしないことをいっぺんにやるのは驚く程簡単ではないか。料理をしないことと読書をしないこととサッカーをしないことを並行してやろうと思ったら、ただグースカ寝てみればよい。「睡眠をする=料理をしない=読書をしない=サッカーをしない」だが、その逆を取って「睡眠をしない=料理をする=読書をする=サッカーをする」とはいくまい。夢の中でもない限り。

 

そうよ私は「しない」の天才

現に、私は今この瞬間、膨大な数の行為をしていない。逆立ちをしていない。散歩をしていない。国語の問題を解いていない。階段を昇っていない。薪を割っていない。編み物をしていない。牛乳を飲んでいない。グラタンを食べていない。これら全てを列挙しようと思ったら、仏教特有の目眩がするほど途方もない数の概念を用いなければならないだろう。ふふん、何かを「しない」ことにかけては自信があるぞ。一方で、していることといえば、パソコン画面を眺めている。ブログを書いている。ベッドに腰掛けている。あとは呼吸とか瞬きとか。それくらいを挙げるだけで事足りる。ぐう、私の「する」を数えるんじゃない。私は「しない」の天才なんだ。ただそれだけでいいじゃないか。

 

志望校は母校にならなかったけどホームステイ先のマザーくらいにはなった(第一志望大学中退並感)

人間は、時間的にも可能性的にもほんのちょっぴりの生き物でしかない。他の生き物から見ればあまりにもたくさんすぎる生き物かもしれないけど。私としては、彼らのようにやるべきことが本能によってほぼほぼ定まっており、それをこなすことに生涯を費やすような生き物の方が、選択肢が多すぎる故にあっちへフラフラこっちへフラフラしている人間よりもクールでスタイリッシュだなと思う。生き方の選択肢は、10もあれば十分じゃあないか。それがまあ、こんなにたくさん。例えば志望大学を書いて提出するとき、もし自分が住んでいる地域だけで100万も200万も大学があったら大変でしょう。大学の案内書を100校ぶんくらい眺めた辺りでうんざりして、「よし、残りのパンフレットは全て燃やして今見た100校の中から志望校を決めよう」ってなると思うんだ。もしかすると目を通さなかった99万余の大学の中に、自分に最も相応しい大学があったかもしれない。けれども目を通した100校の中にも良さげな大学はいっぱいあるわけで、その中から第一志望を選んだって全然いいと思うんだ。だいいち、大学のパンフレットを100万冊も読んでいたらそれだけで高校生活が終わってしまう。それと同じで、己の前に用意された「する」という選択肢全てに目を通していたら、それだけで人生が終わってしまうのだ。だから、人は見向きもせずにいっぱいいっぱい切り捨てる。そして全てが片付いたあとで、ゴミ箱の中をじっと覗き込む。

 

「する」だけを私の棺に入れてくれ 無数の「しない」で墓が溢れる

人の生がせつない理由――そんなものが在るとすれば――、それは我々が常に何かを「する」生き物でありながら、その一方で常に「しない」に向かって思いを馳せていることのうちにもあるだろう。人は米を食いながらでもパンに向かってひしと思いを馳せることが出来る生き物だもの。まあ、色々な餌を前にして集中力が切れているハムスターなんかも似たようなことをするがね。己があるひとつの「する」に向かって意識を集中させている(と少なくとも本人は思っている)ときでさえ、無意識はそれ以外の「しない」の方へと絶えず気を散らしていないか。何かをしていながらも、頭に浮かぶのは「しない」のことばかり。「する」という山を盛り上げながら、「しない」という海を圧し広げている。果てしない海の上に歪な山がひとつ。山の上から山の全貌は見えやしない。どこまでも広がる海が見えるだけだ。

 

きつね派です

こんなことを書き散らしていたら、赤いきつねに粉末スープを入れ忘れていた。飢えた舌で麺と汁を勢いよく吸い込んだら小麦粉とお湯だった。ゴミ箱から粉末スープの袋を急ぎ回収してサッサとかけた。うむ。旨い。それにしても、どうして4分前の私は粉末スープを入れるということをしなかったのだろう?もしも粉末スープの袋が風に煽られてベランダから飛んで行きでもしたらどうするつもりだったのだろう?「しない」じゃ腹は膨れぬのだ。ただ心が膨れるばかり。

 

 

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いつもニコニコわたしの隣に這い寄る煮玉子についての一筆箋|ウップ

ヴォエ

すりつぶしたはずの煮玉子が胃の中で再結晶して食道を這い上がってくるような感覚がする。まるで社会みたいですね。すりつぶしたはずの一般市民が社会の中で再結晶して自由と権利への道を這い上がってくるような具合に。私の消化器官は1つの社会である。今日だけで既に胃薬を5包飲んでいる。そのうちの1包はすりつぶしたはずの煮玉子をなだめすかすためだけに用いられている。しかしきっとそれは無意味である。今最も効果的な解決方法は、這い上がる煮玉子をいったん吐き出して、私と対等な場所に置いてやることだ。まあ自分のゲロとご対面することはできる限り勘弁願いたいが。社会だって私の消化器官と同じように、その場しのぎのモノを色々与えてなだめすかすよりも、一度吐き出してしまったほうが楽だろうになあ。ウググ、胃がギュウギュウする。身体の中で煮玉子が渋滞している。煮玉子に負けそうな私の次回の活躍にご期待下さい。

 

 

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鈴木さんたちについての覚書|お客様の中に「鈴木さん」はいらっしゃいませんか

急募:鈴木

27年目にして気づいた。私、これまでの人生で「鈴木さん」に関わったことがない。幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、大学時代のバイト、ひとつ前のバイト、今のメインのバイト、サブのバイト、関わったことのある人を思い出せる範囲を全て思い出してみても、私の記憶の中に「鈴木さん」は誰ひとりとして存在しない。若干古いデータになるが、明治安田生命保険による2018年の全国苗字ランキングによると、推定人口TOP10は「佐藤、鈴木、高橋、田中、渡辺、伊藤、中村、小林、山本、加藤」らしい。「佐藤さん」は中学高校のオタク友達にいた。「高橋さん」は今のメインのバイト先に以前いた。「田中さん」は幼小中高めちゃくちゃいたしメインのバイト先にもいる。「渡辺さん」もメインのバイト先にいる。「伊藤さん」は小学校とメインのバイト先に入ってきた新人にいたが3日くらいで辞めた。「中村さん」もメインのバイト先にいる。「小林さん」は小学校にいた。「山本さん」は中学高校にいた。「加藤さん」は……ウーン、「加藤さん」はいなかったな。客は流石にノーカンだろう。知り合いになってみたいなあ、「鈴木さん」と。「鈴木さん」ってどこに行ったら知り合えるんだろう。

 

世界の温水だもん

「温水さん」ってシンプルながら結構な難読苗字だと思うのだが、温水洋一のパワーが強すぎるので大多数の人間が迷いなく読めることだろう。以前、客の中に「冷水さん」という人がいた。読み方は「ひやみずさん」である。あの瞬間の子どもじみた興奮を今でも思い出す。「温水さん」がいるなら「冷水さん」もいるんだ。そうか、そうだよな。いたって全然おかしくないよな。「大森さん」と「小森さん」とか、「角田さん」と「丸田さん」とか、「白川さん」と「黒川さん」とか、いるもんな。

 

先日同じ苗字の新人が深夜に入ってくるかもしれないという話を聞いて彼のことをなんと呼ぼうかなあと考えていたが音信不通になったらしく事なきを得た

母の旧姓は漢字二文字でどちらも小学1年生で習う漢字である。めちゃくちゃ画数が少ない。試験で強そう。字面に珍しい雰囲気は全然ない。しかしめちゃくちゃシンプルなわりには同じ苗字の人に会ったことがないなあと思い以前苗字の由来を調べてみたところ、そもそもその苗字の発祥地が母方の家のあるまさにその場所ピンポイントだった。どれくらいピンポイントかというと、あざ レベルでピンポイントである。ちょっと気合の入ったお散歩で行けるくらいの範囲である。テクテク歩いているうちに地名が変わるくらいの。どこの誰が調査を行ったのかは知らないが、やるやん。勿論その範囲内に同じ苗字の家がないとも限らないが、なんだかワクワクするじゃあないか。

 

『Another』だと王子くんが1番好きです

ああ、苗字といえば、『Another』の「ミサキ」ね。「 見崎みさき さん」の家に「めい」「みさき」という名の双子の姉妹のどちらかを養子に出すことになったのだが、「みさき」を出してしまうと「みさきみさき」になるからってんで、「めい」の方を出したっていう設定。これが話の展開に直接どうこうというわけではないのだが、なんとなく気に入っている部分。名前っぽい響きの苗字の人って、ちょいちょい大変そうだなと思う。学生時代に「しずか さん」という女の子がいた。「ナントカ静さん」ではなく、「静ナントカさん」である。すごい。静御前みたい。「しずかです」と名乗っては「しずかさんですね……苗字をお伺いしても?」とか言われてそう。

 

職場とブログを往復していたら2年が経過していた

今回は本当にただの苗字トークです。そういえば最近言ってなかったので久々に言いますが、ブログネームの「白黒れむ」は「はぐろ」って読みます。はてなIDが「shirokuro_044」なので実に紛らわしいです。金払うからマジでIDを変更させてほしい。3000円くらいならポンと出すから「haguro_044」に変更させてほしい。そしたら「あっこの人って『しろくろ』じゃなくて『はぐろ』なんや」って分かるでしょう。何故私のIDが「shirokuro」なのかというと、この「shirokuro」はブログネームに基づくものではなくて、「白黒の雰囲気でブログを作ろう」と考えていたことに由来するからです。白黒っぽいブログを作ろう→じゃあはてなIDは「shirokuro」にしよう→折角だしブログネームも白黒にしちゃおう→「しろくろれむ」って響きが気に食わないから強引に「はぐろれむ」って読ませよう、という感じ。

shirokuro-044.hatenablog.jp

2年前にも全くおんなじこと言っててワロタ。2年前から何も成長してないな。そういえば先日「『珈琲三杯』を開設して2年が経ちました」という旨のメールがはてなから届いていた。2年が経ったそうです。

 

 

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理性という才能についての覚書|理性を捨てるか人間を辞めるか

オリンピックの競技種目に「理性」も加えてどうぞ

個人的な感情に基づいて理性というものを語ってもよいのなら、「理性は一種の才能」と声を大にして喚きたい。そう、理性は才能。サッカーの才能がなければサッカー選手にはなれないように、理性の才能がなければ理性選手にはなれないのだ。しかしながら、理性は天から万民に等しく与えられた人間の根本原理という考えの方が一般的には強いようである。デカルトの言葉を引くなら「正しく判断し、真と偽を区別する能力、これこそ、ほんらい良識とか理性とか呼ばれているものだが、そういう能力がすべての人に生まれつき平等に具わっている」、カントの言葉を引くなら「人が為さねばならぬこと、従ってまた知らねばならぬことに関する知識なら、すべての人が例外なく持ち合わせている」、等々。とはいえ、私ごときが彼らと対立するつもりは毛頭ない。冒頭にも言った通り、これは私が個人的な感情に基づいて表明したいち意見であり、「ケーキはおいしい」とか「セロリはまずい」といった意見の類となんら変わりないものと思ってほしい。

 

天におられる私たちの父がみてる

人間の中には理性の種が誰でも例外なく蒔かれているだろう。それは事実だと思う。問題は、人間はそれを正しく育てるのがすこぶる下手くそであるということである。全ての人間が正しいやり方で理性の種の生育に関わることが出来れば、間違いなく地球は賢者の星となろう。そうならないのは一体なぜか?思うに、どこかの誰かにとっては、手のかからない聡明な人間というものが面白くないのだろう。前にも同じようなことを書いたな。人間が理性の種をめちゃくちゃな方法で育てているのを見てゲラゲラ笑っている存在がいるのかもしれない。ほら、今も見てるんだろう?貴方様のことじゃい。

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量産型理性的存在者

だが、全ての人間の中に蒔かれた同一の種を、全ての人間が同一の正しいやり方で育てたら、全ての人間は正しいただ一種類の花を共通して咲かせることになる。外見が違うとか、食べ物や色や音楽の好みが違うとか、そんな違いは違いのうちにも入らないものである。理性の種が順調に生育したならば、人は外見や趣向の違いによって他人を区別・差別したりなんかしないだろうから。差別も偏見も上下も優劣もない完全完璧なユートピアだよ、やったね。全ての人が正しい唯一の理性を共通して持ち、それ故に彼らは外見や趣向の違いによっては一切区別されない。じゃあ、私とあなたを決定的に分ける点って一体なんなのさ。皮膚が繋がってないところ?肉がくっついてないところ?私は私の肺で呼吸しあなたはあなたの肺で呼吸しているところ?なんじゃそりゃ。「私」と「あなた」は一面に広がるコスモス畑の「こっちのコスモス」と「あっちのコスモス」くらいの違いしかなくて、言うなれば『人類』という70億本の足を持つタコ、我々はその足の1本に過ぎないのだろう。理性的な人間で溢れかえる世界においては。

 

理性という偉大な両親、人間という万年反抗期の子ども

言うまでもないことだが、私も理性の種の正しい生育に失敗した人間のひとりである。理性の種を正しく花まで育てることが出来ていたならば、「理由はないがなんとなく気に食わない」とか「悪いのはこっちだけどなんかムカつく」とか「こんなこともいちいち言わなきゃ分からないなんて」のような、理性の欠片も見当たらないような感情に支配されて自己を乱すこともなかったはずである。理由もないのに気に食わないというのはおかしい。気に食わない理由がないなら気に食わなくないはずである。自分が悪いくせに腹を立てるのはおかしい。自分が悪いのならきちんと反省すべきであるし腹を立てるべきはむしろ相手側のはずである。 言わなきゃ分からないのかというのはおかしい。相手がエスパーでもない限り言わなきゃ分からないのは当たり前のはずである。ああ、ああ、なんて人間臭いんだろう。こんな人間臭さは今すぐにでも捨て去ってしまいたい。人間臭くない人間からはどんな匂いがするのだろう。人間の匂いがしない人間。ヘンだな。人間の匂いがしない人間なんて、まるで人間じゃないみたいだ。

 

 

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