人間界の落ちこぼれがスプレー界のエリートについて考えてみる覚書|約束された勝利のワンプッシュ
母の愛
遊びに来たおかーちゃん「じゃあそろそろ帰るね!あっその前に!こないだドラッグストアで試しに買ってみたスプレー持ってきたからあちこち噴いとくね!家の隅っことかにワンプッシュするだけでゴキブリを殺してくれるスプレーだって!シュ!シュ!」
わたし「最近小さいゴキブリめっちゃ出るから助かる」
猛プッシュ(物理)するおかーちゃん「あ、これね!隠れてたゴキブリがぞろぞろ表に出てきてそこで死ぬようになってるんだって!仕組みはよくわかんないけど凄いね!そのへんはまあよろしくね!」
わたし「ウン」
帰るおかーちゃん「じゃあね!このあと寝るんでしょ!おやすみ!」
わたし「ウン」
わたし「ウン?」
~1時間後~
わたし「うわああああああああうわああああああああ」 ※ご想像にお任せします
わたし「眠れないンゴ」
娘の哀
スプレーすると隠れてたゴキブリがぞろぞろ表に出てきてそこで死ぬようなスプレーは寝る前にプッシュしまくるモンじゃない。ひとつ賢くなったな。これまで「ワンプッシュで効く」系の商品は全然信用してなかったのだが、私は色々な企業様に謝らなくちゃならんようだ。マジでワンプッシュで潜んでたゴキブリがのそのそ表に出てくるスプレーってどうなってるんだ。かがくのちからってすげー。でも寝る前にやるもんじゃない。普通こういうのは外出前にやるもんだ。スプレーの効果で出てきたゴキブリが枕元を這い回りはじめるかもしれない恐怖でなかなか寝付けなかった。あらゆる雑音がゴキブリの出動合図に聴こえる。うちはアパートの1階でドアを開けるとすぐ目の前の通路に排水溝?みたいなのがあって、今くらいの時期はそこからゴキブリが無限湧きするようになっている。で、それが扉の僅かな隙間からチョロチョロ入ってくる。毎年のことなのでもう何も驚かなくなった。殺虫剤を使うとゴキブリが暴れるので買うのをやめた。スリッパでぶっ叩いた方がスマートで早い。
スプレー界の学歴争い
「ワンプッシュで確実に効く」ってのは、人間で言えばそうだなあ、「教科書を1回読んでテスト満点取る」とか「仕事を1回教わって完璧にこなす」とか「曲を1回聴いてその場で弾きこなす」とか、それくらいの凄まじさがあると思う。すなわち彼らはスプレー界におけるエリート中のエリートなのである。考えてもみてほしい、確かにスプレー回数が少ないほど手間が省るしコスパも上がって良い(※)かもしれないが、ぶっちゃけ効きさえすれば必要なプッシュ数が3でも5でも7でもさほど違いはないだろう。いっぱいプッシュした方がなんとなく安心できる、という人もいるかもしれないし。まあ1回あたりの必要回数が10を超えてくると「もうちょっと効き目成分圧縮せえよ」ってなるけど。ともあれ必要なプッシュ回数それ自体、プッシュする側の人間としては大した違いはない。けれどもプッシュされる側のスプレーの立場からすれば、東大か、旧帝大か、有名私立か、地方国立か、それくらいの違いがあることだろう。
※ワンプッシュで確実に効く系のスプレーはだいたいすごく小さくて高いので一概には言えない
「大小問わず才能があるだけですごい」と無邪気に言えるのは外野の特権
必要なプッシュ数が何回であれ、その回数プッシュすることによる効果が保証されているのなら、彼らはみなカースト上位に位置する存在である。仮にやたらめったら必要なプッシュ回数が多く、費用対効果が良いとは言えないスプレーがあったとしても、使用することで効果が期待できるのであれば、その時点で「スプレーとしての才能」は確実にあるわけだ。私は高卒フリーターなので、大学を卒業した人たちは大学名を問わずみんな一様にすごく見えるのだが、彼らの側からすれば自分の経歴に色々思うところもあるのだろうし。満足している人、後悔している人、妥協はしたがおおむね納得している人、後悔するほどでもないがもう少し頑張りたかった人など。そう、人には色々あるんだ。無知な外野がいくら「十分すごいじゃん!」などと褒め称えたとしても、ワンプッシュで効くスプレーと3プッシュを要するスプレーの間には、当人にしか見えない壁がそびえ立っているものだ。
怖がらせる意思はないのに周りを怖がらせるものはガチで怖い
すごいスプレーの間にも色々あるように、すごい人たちの間にもきっと色々あるんだ。私が立っている場所からじゃ彼らの姿さえも見えないけど。すごい人たち同士が激しく剣を交える音を遠くから聞いていると、胃から舌先あたりまでブルリと震える心地がする。恐らくこれが、視覚情報による余計な脚色のない、真の恐怖ってやつなんだろう。
初めから終わりまでひたすらヤバいだけの覚書|マジヤバいよ
「ヤバい」にするか「ヤバイ」にするかで小一時間悩んだ
ここにひとつの「ヤバい作品」があるとする。この場における「ヤバい」の解釈は個人に委ねるとしよう。「過激な」という意味に取ってもいいし、「危険な」というニュアンスでもいいし、「前衛的な」「刺激的な」「反社会的な」「エッチな」など、お好みでどうぞ。で、この「ヤバい作品」に対してある人は言う。「こんなヤバい作品を作ることができる製作者はヤバい人間に違いない」と。それはある意味では正しいが、ある意味では正しくない。
この「ヤバいケーキ」の定義も人それぞれだから面白い
「一見してヤバい製作者がヤバい作品を作る」ことよりも、「一見ヤバくないように見える製作者がヤバい作品を作る」ことの方がより多くヤバさを感じるのだが、皆様はいかがだろうか。強いて言うならアレに似ているな、日頃は温厚な人ほど怒ると怖い説。もうちょっと具体的に例えるなら、ケーキのことなら何でも知り尽くしているヤバいくらい凄腕のケーキ職人がヤバいケーキを作るよりも、普段は平凡なサラリーマンやってて月に2、3回くらい趣味でお菓子作りをする程度のフツーのおじさんが、「ケーキ焼いて欲しいの?いいよ」という軽いノリでヤバいケーキを作る方がよっぽどヤバい。
狂ったキャラクターを作るために製作者が狂った人間である必要はない、ということを理解してない人が時々いるのがちょっと悲しい
作品と製作者の混同はしばしば見られることではある。以前こんな感想を見たことがある。ちょっと、いや、かなりヤバい主人公の一人称視点で進行する某ゲームにおいて、「製作者はきっと気が狂っているか、さもなくばビョーキかなんかだろう」と。イヤイヤイヤ、それはあまりにも偏見が過ぎる。もちろん、製作者が自身のヤバさを投影してそのキャラクターを作った可能性というものは十分あるが、そうと断定するのはあまりにも早計が過ぎるというものだろう。実際、その製作者のツイッターをフォローしているが、ツイートを見る限りにおいては至ってフツーのおじさんである。ゲーム作りに関して有り余るほどの才能を持った、至ってフツーのおじさんである。製作者がぱっと見フツーのおじさんに見えるが故に、あからさまなヤバさとは違った趣のヤバさをあのゲームの中にも感じられるので、こういうのはなんだかちょっとドキドキする。あのおじさんの中身のどの辺りに、ヤバさの源が詰まっているんだろう。気になるなあ。ほんのちょっとだけ、あの、先っちょだけでいいので解剖しちゃだめですか?だめ?そうですか。
深淵を覗くとき、深淵もまたヤバい
自らが手がけた作品を通して、あたかも岩場から染み出す水のように、外に向かって内なるヤバさをじわりじわりと滲ませていく、そんな表現者たち。その雫を自らの手で掬い上げ、ボトルに入れて大切に持ち帰って眺めては、キラキラ光るヤバさの雫にうっとりする、そんな鑑賞者たち。なんかね、そういうのがね、好きなんですよ。で、そういうのってどちらの側にも一定の教養が必要になるでしょう。製作の上ではもちろんのこと、鑑賞する上でも。私は、世の中の「ぱっと見フツーの人」が手がけたあらゆるものの、その内側から滲み出るヤバさを余すところなく鑑賞したいので、その手の内面的なヤバさにはとにかく敏感でありたいと思っている。整えられた外面だけを眺めて満足していてはだめだ。内側で滾滾と湧き続けるヤバさの泉に気づかないなんて、あまりにもったいない。教養。教養。私にはまだまだ教養が足りない。ただの「いつも見当違いな方向に深読みしては自爆するアホ」で終わりたくない。世の中には、私の知らないヤバいものがたくさんある。そして、そのうちのいくつかはきっと、私の手の届くところにある。
草と秩序についての覚書|秩序の時間だコラァ!
ふっ、草生えますね
数日前まで立派に立っていたはずの家屋がある日きれいさっぱりなくなっていたのも驚きだが、その数日後に家屋のあった土地が草だらけになっていたのもまた驚きであった。梅雨時だし、そりゃあ放っときゃ盛んに草も伸びるだろうが、あまりにも伸びすぎだろう。すごいなあ草って。ところで、最近ではパソコンや携帯電話さえあれば人間も草を生やすことができる。特殊な才能がなくたって、誰でもだ。キーボードの「w」を連打すればそれであたり一面草だらけだ。やったぜ。ところで 草 は草と呼ぶのが主流なのに「w」は単 芝 って呼ぶのなんでなんだろう。
草ぁ
草はその生え方・生え時を自らの意思でコントロールすることは出来ないが、人間はそれらを自らの意思でコントロールすることが出来る。はずである。本来草を生やすべきでない場面で草を生やし、その場のノリで一面草だらけにするのは、意思ある人間には相応しくない。昨今のインターネットにおいては、そういう輩は「キッズ」などと嘲られ、精神的に幼い人物という不名誉な称号を与えられるものである。止むなし。しかし「キッズ」という名称も世の中のキッズに失礼なので、何か他にいい名称はないだろうか。こういう時、人間は既存の言葉に頼らざるを得ないのが歯がゆいものだ。「ペヨパニャポン」のような既にない言葉を造って、充てがうしかない。しかしそういった言葉は基本浸透しない。
つまりなにが言いたいかというと
シリアスなゲームのプレイ動画に草だらけのコメントするのほんとやめろぉ
シリアスという除草剤
ところがこのシリアスなゲームのプレイ動画もPart数が進んでいくうちにどんどん草を生やしたコメントが減っていき、ストーリーの中盤に達した頃には、ゲームの雰囲気を汲んだ感想コメントや核心をついた考察コメントで満たされるようになるので、コメント表示で再生するのをやめられない。つまるところあれらの草生やし族は、そこまで持ちこたえられないのだ。物語の最序盤、誰が見ても何が何だか分からないところを茶化すだけ茶化しておいて、物語が見えてくるに従って去っていく。シリアス濃度が高くなるにつれ、彼らは草を生やして茶化すことに耐えられなくなる。ここで彼らを精一杯擁護するならば、「あ、なんか茶化しちゃいけないゲームだこれ」と途中で気づき、静かに立ち去ることが出来るぶん、まだ理性があってよろしい。
スピードワゴンも大騒ぎするだけ大騒ぎして最後静かに去った感はあるけど後々にまで大きな影響を与えた名脇役だからインターネット草生やしマンも見習ってくれ
周囲の人間が揃って黙しているときにひとりで故意に大騒ぎするという行為は、なかなかできるもんじゃない。現実ではもちろんそうだが、インターネット世界においても概ねそうだ。ゲームの序盤、他のコメントが騒いでいるのを見て自分も騒ぎ、ゲームが進むにつれて周囲が静かになり始めたのを見て、自分も静かになる。こいつは人くせえッー!人以上でも以下でもないにおいがプンプンするぜッーーーーッ!!
大丈夫?秩序揉む?
インターネットの匿名集団に秩序を要求するのは実質困難である。だいいち私個人だって秩序的な人間ではないし、そもそも秩序ってなんぞやという話から始めなければならない。であるからして、もはや秩序はみんなで作り上げるものではなく、個人でめいめいに作るものと化しているのが現状である。端的に言えば「嫌なものは見ない」、具体的に言えばNG機能やフィルターを駆使して不快なものを見えなくしたり、ヘンなのに構わないようガン無視を決め込むことだ。こうして全個人が自分にとって完璧な秩序を作り上げたときに、かの麗しき「みんなの秩序」は一体どうなるのだろう。完全に失われる?失われはせずとも形骸化する?それとも、個人の秩序がみんなの秩序になる?イヤ待て待て、「みんなの秩序」なんてものがこれまでどこにあった?それは「ギリみんなの秩序に見える個人の秩序」に過ぎなかったのであって、じゃあこれからは「モロ個人の秩序」の時代がやってくるのかなあ。ねえ、個人、大丈夫?秩序できる?
秩序女子会
女神テミス、女神エウノミア、女神テフヌト、女神マアト、おーい、起きてたら返事をしとくれー。
コンビニとコンビになれない覚書|歳を重ねても自分の納得に対する態度が極端に軟化したり硬化することのない安定した人間になりたい
本日のお悩み相談
ファミマで買い物をして店を出るタイミングでよく音楽アプリがバグったりスマホの電源が落ちます。どうすればいいですか?
義務教育が可哀そう
おっと、容易には説明のつかない出来事の前にそれらしい御託を並べ立てて無理やり自分を納得させることは得意だぞ。履歴書に書いてもいいくらい得意中の得意だぞ。というかそれくらいしか得意なことがないぞ。義務教育で学んだことが生きるのは、まさにこの作業においてである。言葉や文脈で誤魔化したり、無理やり数合わせをしたり、人体構造のせいにしたり、社会に擦り付けたり、家でグツグツ煮込んでみたり、めちゃくちゃにコラージュしたり、力ずくで綜合したり、道徳と倫理でぶん殴ってみたり、フィジカルでぶん殴ってみたり、リコーダーでぶん殴ってみたり、そんなことをしながら、日々自分を納得させている。この作業をやっているときが、最も義務教育をフル活用している時間なんだろう。
終わりはいつも納得
身も蓋もないことを言えば、ほら、人って概ね自分の納得で出来てるでしょう。たとえその人が何かに納得していないとしても、自身が納得していないということそれ自体には納得しているでしょう。自分の納得は人の定項だ。人がどんなに自分の納得に抗おうとしても、最後は必ず「……に納得している」で〆られるわけだ。「自身が納得していないことに納得している」「自身が納得していないことに納得していないことに納得している」「自身が納得してないことに納得していないことに納得していないことに納得している」、以下無限に続く。「納得」は基本的に他人や他人の考えに対して使う言葉だが、〆の納得だけは自分自身に向かう。そこでは唯一自分自身が他人になる。もしもこの世に、「……に納得していない」で〆られる人間がいるならば、是非そのやり方を教えて欲しい。
走れど走れど納得に追いつかないとき人はおかしくなっちまうんだ
「自身が納得していないことに納得していないことに納得してないことに……」がいくら続こうが、最終的には「……に納得している」に終着すると相場が決まっているので、普通に暮らしてる限りは特に心配することはない。しかし、この「自身が納得していないことに納得していないことに納得してないことに……」があまりにも続きすぎると、すなわち終着点=他人たる自分自身がいつまで経っても見えてこないとなると、雲行きがだんだん怪しくなるので注意が必要だ。人が「納得していない」に割ける精神的リソースなんてそう多くはない。あまりに長く「納得していない」ままだと、ええ、ええと、ああそうそう、具合がおかしくなるんだ(ふんわり)。自分は、いつか他人にならなくちゃいけない。ずっと自分のままではいられない。
好きだよファミマって言いながらしょっちゅうローソンで買い物したりセブンでバイトしてるのがいかんのか
私はファミリーマートのことが好きだが、ファミリーマートは私のことが好きではないらしい。なんでやねん。ファミマアプリはDLしてるし、ファミペイも使ってるし、ファミマのTwitterアカウントもフォローしてるし、キャンペーン情報とかこまめにチェックしてるし、週3で買い物しに通ってるし、週7で一服しに通ってるぞ。あと、「あなたとコンビに、ファミリーマート」っていうコピーは好きな企業キャッチコピーの5本の指に入ってるんだぞ。あとの4本は忘れた。いずれ考えます。制服も、汚れが目立たなさそうでいいなあっていつも思ってるぞ。20日からたまご蒸しパンのセール+ファミペイボーナス付与が始まるのもちゃんと知ってるし、楽しみにしてるんだぞ。こんなに愛してるのに、そのお返しがアプリをおかしくしたりスマホの電源を落とすことなんて。まったく猫みたいな性格のコンビニだな。いつか猫買ったらファミマって名前つけてやるんだからな。