朝5時に糸が切れた時の覚書|突然現れた白い壁と椅子
その日も普段通りの夜勤だった。13連勤4日目の水曜日だった。
(私にとって13連勤は至って普通のありふれたこと)
その日が忙しかったかどうかは覚えていない。ただとにかく疲れていた。
ルーチンに従い身体が勝手に仕事を進めていく様を、頭は他人事のように眺めていた。
早朝5時。手が止まった。
ピアノの鍵盤から指を離す瞬間のように、ふっと指先が軽くなった。
手の力が抜けた。腕の力が抜けた。爪先の力が抜けた。膝の力が抜けた。
ああ糸が切れたのだな、と思った。
気づけば私は白い部屋に居た。天井も壁も床も真っ白な部屋だった。
部屋はごくごく狭くて、清潔で、何の匂いもしなかった。
その真ん中に、(おそらく)木製で、背凭れが高くて、肘無しの、ありふれた椅子が1つあった。
硬そうな椅子だったが、疲れていた私にはとても魅力的に見えた。
吸い込まれるように座った。
私は座った。
マットは薄いし、背凭れは角張っているしで、当然座り心地は悪かった。
それから、やはりというか、酷くそわそわした。
こんなところに座っている場合ではないし、それに、そう……やはり座っている場合ではないのだ。
いつの間にか私の手にはペン(極細マッキーの黒)が握られていた。
目と鼻の先に白い壁があった。
座っている場合ではなかったが、その白い壁に、残っている仕事をペンで書くことにした。
ほんの少し腕を伸ばすだけで、ペン先が壁に届いた。
まずはこれ。次にこれ。そして……違う。この順番じゃない。この順番でやると効率が悪い。店内を5往復もしなくてはならなくなる。もっと効率よく動かなくてはならない。3往復で済むように順番を書き換えなくてはならない。一旦消して、書き直さなくては。消す道具。無い。消す道具がないのでぐちゃぐちゃに塗りつぶしてもう一度書いた。そういえば今日は水曜日だからもう一つ仕事があるんだった。忘れていた。まあそれは退勤してからやればいい。6時から出勤してくるのは何人だったか。2人ならいいなあ。計3人いれば楽になる。むむ。1人だ。6時に1人退勤して1人出勤なので結局2人だ。しかも出勤してくるのは妊娠中のパートさんだ。無理はさせられない。私が動かなくちゃ。動く仕事は私がやらなくちゃ。パートさんには受付対応を任せよう。動く仕事は私がやる。やるべきことはアレとコレと……むむむ。これは不味い。終わらない。前倒しで始めなければ終わらない。手を抜かなければ終わらない。本当は毎朝の掃除はもっと丁寧にやりたい。洗剤を使ってメラミンスポンジでごしごし擦って、細かいところは歯ブラシで擦って、お湯で流して、それを何度か繰り返して、綺麗なタオルで拭いて、ピカピカにしたい。でも出来ない。3人いても時間がないのに2人の日に出来るはずがない。終わらない。多分。今日も終わらない。それで結局残っている仕事はどういう順番でこなせばいいんだったか。違う。こうじゃない。こうじゃない。こうじゃない。もっと考えろ。効率よく動けるように考えろ。違う。こうじゃない。こうじゃない。
座っている場合ではない私は我に帰った。
立ち上がってここから出て仕事をしなくては。
おやまあなんてことだ。読めない。目の前のやることリストが読めない。何度も何度も何度も何度も書き直して全部ぐちゃぐちゃで何を書いてあるのかさっぱり分からない。読めない。読めない。やるべきことは。違う。順番が違う。読めない。私がやることは。やることが読めない。読めない。読めない。
結局椅子からは立ち上がれなかった。
正確には、椅子が私から離れなかった。
ぐちゃぐちゃの白い壁も頭の中に残り続けた。
私は尻に椅子をくっつけたまま仕事をした。
下半身が重くて、あちこちに体をぶつけながら動き回った。
椅子が邪魔でイライラした。
イライラして、思うように動けなくて、効率よく動けば3往復、そうでなくても5往復で済むような仕事を、9往復かけてやった。
それで、疲れて、いつもの倍、椅子の重みの分まで疲れて、「疲れた」と声に出して言った。
椅子は外れた。多分。