珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

幸も不幸も一筋縄ではいかない件についての覚書|幸せが不幸せで不幸せが幸せ

50秒くらいで考えたそれっぽいこと言います。

幸せは当人にとっての娯楽で、不幸せは周囲にとっての娯楽である。知らんけど。

自分より幸せそうな人を見て羨ましいと思ったり妬んだりすることは正直言って、あまり無い。幸せそうな人は友人とパーティーやバーベキューを開いたり、家族とテーマパークに行ったり、海外旅行に行ったり、美容室に行ったり、ネイルサロンに行ったり、昼はお洒落なレストランに夜はお洒落なバーに行ったり、ふかふかの犬を飼ったりしている。仕事で業績を上げたり、ボーナスが出たり、昇進したりしている。

ところが私にとってこの手の幸せは概して拷問である。まず人とメシを食うのが大の苦手である。人混みが苦手である。旅行が苦手である。なんかキラキラした店が苦手である。外食が苦手である。ふかふかの犬は良いと思う。仕事の話はしないでおこう。年齢的なものを考えれば、いよいよ正社員とフリーターで顕著な収入差が出てくる頃合なのだ。社会的信用度の差なんて言うまでもない。こちとらそんなものは最初から1ミリも持ち合わせていない。土壌が痩せているだけならまだマシだ。私は来る日も来る日も虚無に向かって種を蒔いている。

親戚の集まりに行くたびに、いい年した大人たちの馬鹿笑いをぼんやりと眺めながら、私はこの人たちと一部共通の血を持っていながらどうしてこんなに内向的に生まれてきたんだろうと毎回思う。周りが盛り上がっている時も1人でじっとしていて、場が賑やかであればあるほど不機嫌にむっつりして、話を振られた時だけ輪に参加するが、発言があんまり面白くないので自分の発言中だけ急に場が盛り下がって静かになり、自分の発言が終わるとまた盛り上がって、それで居た堪れなくなって途中で逃げるように退席してしまう……そんな根暗の血があの大騒ぎ一族に流れているわけ……ってソレじいちゃんやないか~い!

それはさておき上記の理由により自分より幸せな人を見てもあまり羨ましいと感じることはないが、自分より不幸な人を見ると時折羨ましく思う。何故だろう?

答えは簡単で、自分より不幸な人を見つけた瞬間、悲劇のヒロインの座が自分からその人に移ってしまうからだ。

(あるときから)これまで自分は自分の人生という物語の中でヒロインだった。悲劇のヒロインだった。自分はこれまで出会った誰よりも悲劇の似合う女だった。だがある日自分より悲劇の似合う女が現れた。悲劇のヒロインは誰よりも悲劇的で無ければならないのに、自分よりずっと悲劇の似合う女が現れた。これは自分の人生の物語なのに。この物語における悲劇のヒロインは私ではなかった。名も知らぬあの女だ!自分の人生の物語で突然自分が冴えない脇役に成り下がってしまった。なんということだ。私はこのまま「ちょっと気の毒な村娘」として一生を終えるのだ。ヒロインに戻れないまま。私の人生なのに!

さあさあ今すぐあの芋臭い村娘を舞台から引き摺り下ろそう。その代わりに真っ暗な舞台袖でがたがたと震えているあのみすぼらしい女を真ん中まで連れてきて、スポットライトを目一杯浴びせてやるんだ。悲劇のヒロインは彼女にこそ相応しい!

こうして炎は燃え上がり、舞台は焼け落ちるのでした。おしまい。

 

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