珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

許されることについての覚書|私は許さない

私は自分に対しても他人に対しても厳しいタイプだと思う、と書こうとして、無性に恥ずかしくなって止めた(結局書いている)。私が自分に厳しい人間だったら、今こんなところでこんな風には生きていないはずだ。これまでの怠惰と甘えと努力不足を強く自覚し、深く反省し、厳しく生きていこうと(ほんのつい最近から)心がけ(る素振りをし)始めた(ように見える)だけのことであった。自分に対して甘甘の甘ったれだった時代の莫大なツケを払いながら生きているのである。そこに何の同情の余地もない、当然の報いである。「他人に対しても」というのは、まあその、「自分のことは棚に上げて」というアレである。他人を良いところの足し算ではなく悪いところの引き算で見る癖がある。本当にごめんなさい。

社会全体がどうかは知らないが、近頃のインターネットはいわゆる「~は甘え」論に厳しい。人の苦しみを「甘え」という言葉のもとに容易く両断するのを止めよう。それは時に深刻な病であり、時に目先の努力でどうこう出来る話ではなく、個々人の問題というよりむしろ社会問題として取り上げるべきである。もしかしたら本人にも何らかの落ち度や手違いがあったのかもしれないが、本人が辛いと言っているなら、辛いこととして許してあげよう、みたいな。そういう風潮がインターネット、特にツイッターでは非常に盛んであるように思う。まあここ何年もインターネット世界なんてツイッターくらいしか覗いていないので、その認識が私のバイアスであるなら申し訳ない。

比較屋は今日も元気に比較に勤しむ。あの人には出来てるんだから、あなたが出来ないのは甘え。あの人は我慢しているんだから、あなたが我慢できないのは甘え。うるせ~~!!!知らね~~!!!FINALFANT

ASY。比較屋はいつか自分が比較されて身を滅ぼすのだ。

ついでに「どこぞの誰々は苦しんでいるのだから周囲は娯楽を控えるべき」「上司がサービス残業しているのだから部下も当然サービス残業すべき」「時給800円で働いている人間もいるのだから時給900円の人間は文句を慎むべき」といった、苦しんでいる人間を基準にしてそこから出るものを叩くような謎自粛理論が消えてくれれば結構だ。部下も上司も等しくサービス残業なんてしなくていい会社にしよう。時給800円の人も時給900円の人もゆくゆくは時給1000円で働ける社会を作ろう。いつになるか分からない。でもいつか、そうしよう。だから、上司は自分を差し置いて定時で上がる部下を大目に見よう。時給800円でめちゃくちゃしんどい仕事をしている人は、時給900円で楽チンな仕事をしている人を大目に見よう。

ただ、ここ最近はなんとなく、「許してくれる世間/社会」に対して恐怖を覚える。一体世間/社会はどこまで許してくれるのか。明らかに過去の自分の努力不足のせいで、甘えのせいで、怠惰のせいで、傲慢のせいで、代償として毎日毎日毎日代わり映えのしない苦痛を繰り返して、死にたいとしか思えない生活を、自業自得でしているのに、「許すよ」って言われたら、怖すぎて泣くと思う。

だって、……ええと、あの、一応確認しますけれども、本当に許してくれるんですか?あなた(方)はあんなことも許してくれるんですか?えっこれも?流石にこれは許してくれませんよね……え!?いいんですか!?私許されるんですか?どうして?どうして許してくれるんですか?全部私の自業自得なのにどうして許されることが許されるんでしょうか?

そうやって怖すぎて泣いて、余計に自分で自分を許せなくなると思う。誰かに許される前の何倍も何十倍も。誰かが私を許してくれても、私は決して私のことを許さないぞと。厳しくあらねばならぬと、固く心に誓うと思う。ここで許されたら、また甘えて駄目になってしまう。

「許すよ」って言ってくれる優しい人は、許した後のことは1ミリも考えていない。許すことだけが仕事だから。あちこちを忙しく巡って、あの人も許して、その人も許して、この人も許すだけ。そうしたらあの人のこともその人のこともこの人のことも綺麗さっぱり忘れてしまう。

姿の見えない誰かに「許すよ」って言われて、少し安心して、安心したから1歩踏み出して、でもやっぱり駄目で、さっきの声に助けてほしくて後ろを振り返ったら誰も居なくて、慌てて周囲を見渡して、左にも、右にも、前にも、近くにも、遠くにも、誰も居なくて、既に1歩踏み出してしまった足はもう後ろに戻せないし、かといってもう片方の足を前に1歩踏み出すことも出来ないのに、自分の周りの現実はどんどん進んでいく。許してくれる誰かなんて初めからいなかった。

 

f:id:shirokuro_044:20190505142853j:plain