珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

心配性と何者でもない自分についての覚書|何も出来ない何にもなれない

自分は生きやすい人間か生きづらい人間かと聞かれれば断然生きづらい人間だと思う。理由は単純に、考えすぎてしまうから。気にしすぎてしまうから。考え「すぎ」気にし「すぎ」という自覚はあるのに、何故その過ぎた部分を平らに均すことが出来ないのだろう。何かが起こる度に考えすぎて、気にしすぎて、今やるべきことに手を付けられなくなったり、眠れなくなったり、ごはんの味がしなくなったり、些細なことにイライラしたりするのだが、それが実際に自分の想像していたような悪い方向へ傾いた事なんて1割も無いと思う。じゃあその1割ってどういう案件だったの?……思い出せない。いやでもこれだけ頻繁に頻繁に心配して心配して、大抵の場合何事も無かったとしても、100%何事も無かったなんてことはあるまい。10%、いや5%くらいは、実際悪い方向に傾いた事案があるはずだ。ふーん例えば?……思い出せない。じゃあ結局どれも大したことじゃなかったんだ。いや待てそんなこと言うとフラグになるぞ。今に見てろ。そうやって油断してる時に悪いことは起こるんだ。私は知っているんだ。悪いことというのはそうやって「なんだ悪いことってそんなに起こらないじゃん」と思っている時に限って起こるんだ。絶対そうだ。今に見ていろ、絶対起こるぞ!……えっと、その、悪いことが起こって欲しいの?――そんなわけあるか!

私の家にはテレビがない。インターネットのニュースサイトも見ない。雑誌も買わない。世間話をする相手もいない。つまるところ、世の中のことを何も知らない。政治や経済の分野だけではなく、流行も芸能もスポーツも何も知らない。ツイッターやブログで他人が話しているのをたまたま目にする、それが私の知る世の中の全てである。いつ頃からか忘れたが、ニュースを見ると気が滅入るようになった。暗いニュースが気を滅入らせるのではない。明るいニュースが気を滅入らせるのだ。俳優、モデル、アイドル、歌手。余りにもキラキラしていて目が潰れてしまう。才能のある人々の話題。見ているだけで心がギュッとなる。辛い。可愛い動物のニュースならどうか。可愛い動物が出てくる。可愛い動物を飼っている家が出てくる。デカい家だなあ。金持ちの家だ。あっ無理。ここでしんどくなる。そのうち思考が自分にフォーカスされて、凄い人たちや幸せな人たちと比較してどうして自分は……となってしまう。そこまで思考を集中させなければならないほど自分という存在に重さがあるのか。塩から塩気を取り去る方法でも考えていた方がマシだ。

コンテンツを作っているのは人だ。人の作るコンテンツに出ているのも大体は人だ。コンテンツに携われる人は何かを持っている人なのだ。ニュースを見ないのは心の自衛のため、というと聞こえはいいが、単に豊かな人々や成功している人々を見るとどうしようもない嫉妬心に苛まれるため、そうなる前に逃げ回っているだけ。これまで何の努力もしてこなかった私には、何のコンテンツに携わることも出来ず、モブにもなれず、エキストラにもなれず、 路傍の木にもなれず、足元の石にもなれず、ただ一生何にもなれずに終わっていくしか道がないのだ。じゃあ今から努力しろよ。仰る通りでござんす。いやしかし「努力を始める機会」にはこれまで何度も何度も出くわしたと思う。そのうち何か1つでも続けていれば、何かになれたのだろうか。仮に何かを続けられそうになったとしても、考えすぎる性格がいつも邪魔をして、駄目になっていたと思う。現に今こうなっているのも「行動をする前にただただ考えすぎたせい」であって、「誤った行動を取ったせい」ではなのだ。めちゃくちゃアホらしい。アホらしいと分かっているのに、今日も明日も明後日も、また考えてしまう。

毎日毎日些細なことを考えすぎて、気にしすぎて、結局何も起こらなくて、ほっとする。ほっとするのも束の間、また何か気になるようなことが起こって、ドキドキして不安になって、今回も何も起こらなくて、ほっとする。無用な心配と安堵をひたすら繰り返して私の人生は終わるのだろう。何にもなれないまま。いっそ何かが起こって、坂道を転げ落ちて、傷ついて、削げ落ちて、凹んで、千切れて、折れて、曲がって、そうしてボロボロの何かになった方がマシなのかもしれない。何か。何かになりたいと毎日漠然と思う。

坂道を転げ落ちたからといって、何かになれる保証はないのだけれど。

うーん、いつも以上に支離滅裂。

 

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