珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

「生きるの大変そう」についての覚書|抱えた怒りで社会を動かす人たち

本当になんとなくなのだが、なんとなく思うところがあって、ツイッター発達障害の方の大きなアカウントをフォローしている。なんとなく。失礼ながら「生きるの大変そうだなあ」とぼんやり呑気に考えながら。私がフォローしている大きいアカウントの人は発言力あるし、文章力あるし、人脈もあるし、どうやら経済力もあるみたい。箇条書きすればただただ羨ましい人だけれど、現実ではぱっと見普通の人にしか見えなくて普通の人と同じ扱いされて、ところが実際はうまく出来ない普通にやれないところを見られて、がっかりされる、みたいな経験をたくさんしてそうだなあ、と、勝手な想像をしている。

ところがそういうアカウントをフォローし始めてから、「生きるの大変そう」な人のツイートがTLにゴロゴロなだれ込んでくるようになった。RTとか、いいねしました機能のお陰(せい)である。RTは非表示にすればいいのだが、面白いツイートが流れてくることもあるし、いつも少し迷ってまあいっか、とそのままにしている。

障害、貧困、格差、フェミニズム、そういう話題が水簾の如くドバドバとTLに落ちてきて、はて、私のアカウントは何のアカウントだったかな?と思いたくなる。今のところ特に抵抗感を催したりはしていない。ちょっと心がチクチクするだけ。そのチクチクを中和するために、田舎で暮らしたり、毎日パンを焼いたり、朝ごはんにめちゃくちゃ時間かけてる人のアカウントなどをフォローしている。だから大丈夫。にしてもどうしてあんなに部屋が綺麗で、シンプルで、お洒落なんだろう。どうしてあんなにたくさん味のある家具を持っているんだろう。どこで買えるの?山?

 ああええと、それでそういう、「生きるの大変そう」な人々のツイッター論争も引用RT等を通して流れてくるわけだが、それらをボケッと眺めながら、そんなことばっかり考えててしんどくならないのかな?と思う。先日申し上げたが私は一般的なニュースをほぼほぼ遮断した生活を送っているので、日頃そういう話題もほぼほぼ耳にしない。一方でツイッターを開くと専らそういう話題ばかり、みんな生きづらいことに関する話題ばかり話していて、それを大変そうだなあと他人事のように眺めている。まあ、普通に社会人やってたらニュースを遮断した生活なんて出来ないし、必要に駆られてニュースを見れば、自ずと社会への不満なんかも生まれてくるし、それが自分の生活に関わることであれば愚痴のひとつやふたつ、ぽろりと出てくるだろう。私はかれこれ3、4年くらいまともに社会を見ていない。アホに社会は難しすぎる。社会を敬遠しているから、更にアホが加速する。とはいえ、社会を何も知らないアホがそれでも毎日生きられてしまうのは、社会が上手く成り立っているということなのだろう。

社会の制度だったり世間の風潮だったり、自分ひとりでは、或いは一朝一夕ではどうにもならないようなことについて、怒りを抱えて生きていくことは、私には出来る気がしない。出来ないから、見ないようにして、逃げ回っている。男の年収とか女の年収とか女を養う男とか男に養われる女とか、そういう話ばかりしている人たちは、そういう世界に生きているのだろう。想像もつかないことだ。とにかく1人が大好きなので誰かと一緒に生きていくという選択肢がそもそもなく、従って交際(結婚)関係を前提とした誰かの年収とか、考えたこともない。この先も一生考えることはないだろう。

それは置いておいて、彼等はいつまでその怒りを抱えて生きていくつもりなんだろう。しんどくないのかな。彼らが日々持論をバチバチ展開しているアレは、10年とか20年単位で時間の掛かる問題だと思う。ここ最近やっと「働きすぎを止めよう」「現場の声を無視した無茶なサービス提供をやめよう」「みんなもっとラクしよう」みたいな風潮が出てきたけど、それらと同じくらい、時間が掛かると思う。しかし彼等のように問題を問題として捉え、怒りとして抱え続けてくれる人たちがいなければ、世の中は何も変わらないのだろう。彼等が怒りを抱えてくれるからこそ、社会が変わるんだろう。時々妙な方向に煽動しようとする輩もいるけれど、それはいつの時代だって同じことだ。

怒りは彼等にお任せして、私は今日も惰眠を貪っている。

 

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