珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

『死に至る病』についての覚書|本の内容はさておき

絶望、そして罪への入門

「或る瞬間には彼は自分が絶望しているということがほぼ明らかになるのであるが、次の瞬間には自分の具合の悪い原因がどこかほかに自分の外のものにでもあるように思われてきて、それさえ取り除けられるなら絶望しないで済むだろうなどと考える。或いはまたおそらく彼は気散じないし気散じの手段としての仕事やせわしなさによって自分の状態を自己自身に対してはっきりと意識させないでおこうと努めるのであるが、その場合また彼は自分がほかならぬそういうことをするのは単に意識を曇らすためだということにはほとんど気づかないのである。」

キェルケゴール死に至る病岩波文庫,78頁

ヴォエ(挨拶)

ここ最近読んでいる本。キェルケゴールの『死に至る病』。ブックオフで手に入れたので毎日少しずつページを繰ってるのだが、あまりのあんまりっぷりにニコニコしてしまう。あんまりだ。でも最高だ。もっとやってほしい。歴史上の偉人を誰か1人蘇らせることが出来たのなら、私はキェルケゴールを選ぶかもしれない。サーヴァント・キャスター・キェルケゴール。うわ。

絶望と罪はまあ一旦置いといて

ただ、こういう、ある観念について、作者の考察に基づいた細切れの類型をズラリと挙げていくようなやり方はどうも肌に合わないと気づいた。「内容」ではなく、「陳述の仕方」の話。「内容」はサイコーだ、何度でも読み返したいと思った、ただ「陳述の仕方」はどうも苦手だ、といった具合。つまるところ学問的などうこうではなく、単純な私の好き嫌いである。

Aaの場合。Abの場合。Acの場合。Baの場合。Bbの場合。Bcの場合。といった具合に、論に穴を作るまいと、考えうる限りのパターンをズラズラ並べられると、ははあ、なんというか、穴を突かれて反論されるまい、一分の隙も見せるまい、という作者の恐れのようなものが紙面から滲み出てくるようだ。思わず渋い顔になる。もう一度言うが、論文を発表するにあたってそれが相応しいやり方か否か、という学問的などうこうではなく、ただただ私の好き嫌いによる偏見である。「AaにもAa-αとAa-βがありますよね?あなたはAa-αについてしか述べていないようですが、Aa-βについては如何お考えか?」などと言われたら、どうするのだろう。Aa-βに関してそれらしい補足を加えて場を切り抜けるのか、大人しくAa-βの不足を認めるのか、AaをAa-αとAa-βに切り分けようとする行為自体を否定する(切り分ける必要性を認めない)のか、うるせー馬鹿で済ますのか。隙を作るまいとあらゆるパターンを事前に用意しておく行為が、却って隙を作っているような気がしてならない。無論、学術論文は自分が勝ち誇る道具でも相手を打ち負かす道具でもない。相手の反論を封じたら勝ちではないし、反論されたら負けでもない。分かっているのだが、うーん。どうして私はこうもパターン化による叙述が嫌いなんだろう。

絶望に付ける薬―疲労、ストレス、怒り、苦痛

それは一旦脇に寄せておいて、今回述べたいのは下線の文章。私は200年前の哲学者の文章に殺された。呆気ない。雨の日に傘をさして少し陰鬱な気持ちで歩道をテクテク歩いていたら曲がり角で撃たれた。目の前にいる人間を衝動に任せて物理的に始末するよりも、数年後、数十年後、数百年後の人間を自分の置き土産で精神的に四散させることが出来たらどんなに気持ちよかろう。座でゲラゲラ笑ってしまうな。

ええまあ、仰る通りである。仕事やせわしなさは、絶望に対する非常に良い薬である。絶望を癒すではなく、絶望を消し去るでもなく、絶望を覆い隠すこと。そのために敢えて忙しく動き回ること。今抱えている絶望を、疲労、ストレス、怒り、苦痛、それらで上書きすること。劇薬の副作用を劇薬で抑え込むこと。ゲラゲラ。小さな火傷の跡を目立たなくしようとして、火に飛びこんで全身丸焼けになるようなものだ。それでも我々には、火に飛びこむ以外の治療法がないのである。よしんば包帯を持っていたとして、自分の絶望に自分で巻きつける包帯に何の意味があろうか。包帯を巻いてくれる誰か、誰かが居ればいいですね。

……また話戻ってもいい?

パターン化による泥沼―文字通りの墓穴

書いている途中にパターン化による叙述が嫌いな理由がなんとなく分かった。それは読み手としての立場から来るものではない。自分でこのようなパターン化を試みる書き手になった場面を(うっかり)想像して、「ええとですね、あの場合、この場合、その場合、それぞれ構成要素3種類のパターンを考えますと、……ええとそれらには例外もあって、例外の中にも例外があって……」という「パターン化の泥沼」に落ち込む恐怖の予感に襲われるからだ。うむ。これがしっくりくる。

世の中のどんなことでも、細分化しようと思えばどこまでも細分化出来ると思う。物事の分類が①②③④で終わるものか。①-1-Ⅰ-ⅰ-⑴くらいはあるはずだ。 それに対して「確かにそうですけど自分はそこまでやるつもりありませんよ、キリが無いですし。自分の中では①②③④で十分です」と堂々と言える人間なら良い。一方「ムキー!!そんなこと分かってる!!やってやろうじゃねえかこの野郎!!」となる人間は大変だ。私は恐らく後者なので、だからこそ、手にとった書物でパターン化、細分化、類型化が始まるとゾワゾワしてしまうのだ。穴を埋めようとして、穴を掘っている。ウウッ。穴を埋めるための土を得んがために、すぐ隣に穴を掘っている。

9割方、パターン化が嫌いな話しかしてない。

 

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