珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

「アウトプットとは何ぞや」と考えるための覚書|それで結局アウトプットとは何ぞや

とあるビジネス系カタカナ語について語るための導入

最早ロクに思い出せない大学時代、教授から言われた事で私が覚えている数少ない言葉がある。「辞書の引用から始まるレポートをやめろ」。その言葉は今回の記事とは特に関係が無いので、私は辞書の引用から記事を始めることにする。

アウトプット【output】 ( 名 )スル

① 内部に入っているものを外に出すこと。特に、コンピューターのデータを外部に取り出すこと。出力。

②産出。産出量。 ⇔ インプット

大辞林』第三版

 独断と偏見で選ぶはてなブロガーの好きな言葉。「書評」「断捨離」「ミニマリスト」「インプット」「アウトプット」。ビジネス系カタカナ語は、通じる相手には大いに使うといい。逆に通じない相手には絶対に使うのを止めよう。難しい言葉を知っている人よりも、相手に伝わる言葉を扱える人の方がずっと賢い。そんな巷に溢れる賛否両論のカタカナビジネス語たちも、最近読んだ本に登場した「ビヘイヴィアー」には適うまい。「ビヘイヴィアー」の破壊力の凄まじさたるや。「ヴ」と「ー」が非常にポイント高い。「ビヘイヴィアー」の文字は即座に私の頭の中に巣を張って、その上を我が物顔で闊歩し始めた。「ビヘイヴィアー」のせいで、その日はいくら本を読んでも内容が頭に入ってこなかった。すごいぞ「ビヘイヴィアー」。メタルバンドみたい。

アウトプット!インプット!アウトプット!

役立つ知識や手法を(ライフハックサイトやビジネス書から)取り入れてばかりの人に対しては、決まってこのような言葉が投げかけられる。「インプットばかりしていても、アウトプットしなければ意味がないですよ」。なるほどその通り。ところでアウトプットとは何ぞや?

ブログの運用形態を少し参考にしたくて、「いかがでしたか?」系の自己啓発ブログを見に行くと、「アウトプットのためには実行に移すことが大切です!」とかいう、「痩せるためにはダイエットすることが大切です!」みたいなことばっかり言ってて、うんざりした。「悩みを解決するためには小さなことで悩まないことが大切です!」とか、そういうことばかりつらつらと書いてある。まあそれは置いておいて、結局アウトプットとは何ぞや。インプットをしていると外野から「アウトプットしろ!アウトプットしろ!」と野次を飛ばされる。そこで慌ててアウトプットしようとすると「アウトプットするための中身を持っていない奴がアウトプット出来るわけないんだよなあ」と小馬鹿にされ、「まずインプットして中身を蓄えろ」と言われる。インプット。アウトプット。インプット。アウトプット。ヒュンヒュンヒュンヒュン。まったく自分に関係ない人々の嘲笑の声を聞きながらインプットとアウトプットの間を無限に反復横跳びしているうちに、彼は音速を超えて、やがて光になった。インプットとアウトプットとは、意識せずとも些細な出来事から優れた中身を蓄えられる人や、意識せずとも優れた結果を出力出来る人のためにある言葉ではない。我々のような凡人のためにある言葉だ。

インプット/アウトプットとは切っても切れない書物たち

さて、ではアウトプットのための素材はどこから手に入れようか。最もお手軽なのが書物である。今や数百円出せば優れた書物が手に入る時代。さて、どのような本を読もう。おっと1冊の本を手に取ったようだ。なになにタイトルは……『ビジネスはアウトプットがすべて』。待たれ~い!待たれ~い!もういい!アウトプット本はもういい!入れるのがインプットで出すのがアウトプットだ!それだけ分かっていれば取り敢えず十分だ!待たれ~い!そんな本読むくらいなら絵本でも読んでろ!『からすのパンやさん』はいいぞ!

本の摂取、消化、吸収、排泄

インプット/アウトプットと関係して(脱線して?)本の話に移った。ついでに、本を読む行為と、内容を取り入れて何かを出すことについて考えてみる。それは食事に似ている。食事の流れとして摂取、消化、吸収、排泄という過程がある。口に入れて、小さくして、取り込んで、(ここでは不要なものを)出す。これを読書に置き換えるならば、本を読んで、内容を咀嚼して意味を一生懸命考えて、頭で理解して身につけて、実生活で成果にする(ここでは必要なものを出す)こと……なのだろうが、まあ実際そんなスムーズにはいかない。読んで実行して成果、読んで実行して成果、読んで実行して成果、が簡単に出来る行為であるのなら、我々には聖書と、コーランと、仏典と、紀元前の哲学者たちの書いた書物だけで十分なはずだ。そうではないから、今日に至るまで、膨大な数の自己啓発本が出版されている。

本当は、読んだ本の内容と実生活が馴染むまで、じっくりすり合わせる時間が必要だと思う。あなたが天才的なひらめきを持つ人間でないのであれば。食べた物を消化するのにも時間がかかる。分かりやすく言えば、「なんかこないだ読んだ本にこういうシチュエーションあったなあ、何の本だったかなあ」というぼんやりした経験を何度も積み重ねること。実生活を本の内容に寄せてくのではなく、実生活に本の内容を寄せていく。それで、ある時自分の中からポン、と何かが出てくる。多分そこそこに実のある何かが。恐らく、こうやって実生活と本の内容との距離が詰まるまでには数ヶ月とか、1年とか、或いはもっと掛かると思う。それでもちろん、日頃から本の内容を意識して「あの本の内容はどういうことなのだろう?」とぐるぐる考えてもいいし、考えなくてもいい。考えるのが好きな人は考えたらいいし、考えるのが苦手ならば考えなくていい。頭で考えることはーー多分、あんまり関係ない。そこからは恐らく娯楽や趣味の範疇であるから、考えるのが楽しい人だけやればいい。

しかしながら、大抵の現代人にそんな悠長に待っていられる時間は無い。更に困ったことには、ひとつの本と、自分の生活が調和するのには非常に長い時間を要するにもかかわらず、一方で世の中に有意義な書物は星の数ほどある。例えば、今まさに人生が終わろうとしているとき、震える手で数冊の本を指差して、「私の人生において、私の生活と調和する段階にまで至った本は、この3冊のみであった」という結末に、書物を愛するあなたは耐えられるだろうか?無論、全ての本から有意義なモノを取り出す必要はないわけだが……。

アウトプットとは何ぞや

ええとそれで、それで結局アウトプットとは何ぞや?アウトプットとは、入れたものと自分の生活(それも、極めて自然なもの)とが調和した瞬間、初めて何かを排出すること。ところが現代人は忙しいから、まだそれらが乳化さえしていない状態で取り出そうとして、「なんだこれ?」となる。人間が思考するスピードなんて昔からそんなに変わっていないはずなのに、取り出せとせっつかれる頻度や要求されるクオリティばかり高くなる。消化する暇もないのにウンコが出るものか。出たとしたら、それはただの滞留便だから大したモノではない。

もちろん何かを受け入れる基盤も、大切。底に大穴の空いたコーヒーフィルターにコーヒーを入れても、コーヒーは出来ない。入れたそばからコーヒー粉がこぼれ落ちるから、何にもならない。ビニール製の袋にコーヒーを入れてもまた、コーヒーは出来ない。お湯を注いだところで淵から溢れてくるばかり。

結論がなんだか尻すぼみになってしまったけれど

いやほんと、普通そこまで待っていられないよね、と思う。本を読んで明日にでも成果を出さなければならない場面はある。というか現代人にはそんな場面ばかり。毎日毎日変わり映えのないことを繰り返して生きている正社員経験のないフリーターの戯言とでも思って流して頂きたい。そうそう、もしいつまで経っても日常の中でぼんやりとした気づきが来ないのなら、あの時読んだ本は(少なくとも今の)あなたには必要のなかったものだ。そういうこともある。

 

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