珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

つまらない出来事についての覚書|つまらないものにしか成せないこと

つまらない出来事を面白く綴ろうと試みること

つまらない出来事を、どれほど情熱的に、ドラマチックに、大胆な筆致で、ダイナミックに書き起こしたとしても、大抵の場合、つまらない出来事はつまらないままである。つまらない人間は変わることが出来るが、つまらない出来事は自身を変えることが出来ない。「つまらない出来事が発生した」という事実は未来永劫誰にも消し去ることが出来ないから、死ぬことも出来ない。永久に生き続けるしかない。つまらない出来事がつまるようになるのは、それが過去を思い起こさせるか、未来を連想させるとき。つまらない出来事それ自身は逆立ちしてもつまらないが、過去のある一点と結合して、思い出を現在へ引き寄せることも出来るし、先の見えない未来のある一点と連結して、可能性を現在へ引き寄せることも出来る。そうして初めて、つまる出来事へ姿を変える。一方で、つまらない人間には、これが難しい。

つまらない出来事、過去と未来を引き寄せるの巻

「ごみが落ちていた。」

はい。ごみが落ちていたのですね。この程度ならまあ、つまらない出来事に分類しても差し支え無いだろう。「ごみが落ちていた。」というごく単純な出来事を、どれほど情熱的に、ドラマチックに、大胆な筆致で、ダイナミックに書き起したとしても――恐らく、「ごみが落ちていた。」以上にも以下にもならない。「真夏の太陽光を反射してテラテラと光る、抽象的なシルエットの不要物が、その艶かしい肢体を歩道にしんなりと横たえていた。」はい。ごみが落ちていたのですね。

ところがもし、その落ちていたごみが、学生時代、部活帰りによく飲んだカフェオレのパックだったらどうだろう。「ごみが落ちていた。」というつまらない出来事は、あなたの学生時代、部活帰りの情景という過去の一点を光の如きスピードで捕捉して、現在に引き寄せる。うわ懐かしい。そういえば毎日飲んでたな。よく飽きなかったよな。じゃんけんに負けて5人分奢らされたこともあったっけ。

あなたにとって思い出のカフェオレでも、あなたの隣を歩いている同僚にとっては「ごみが落ちていた。」以上でも以下でも無いだろう。ただもしかすると、あなたの同僚は落ちているカフェオレを見て、「あー、落ちてるカフェオレ見たらなんか飲みたくなってきたな」と言うかもしれない。そして実際コンビニに行ってカフェオレを買うかもしれない。「ごみが落ちていた。」というつまらない出来事は、彼が近い未来においてカフェオレを買う、という可能性を引き寄せた。水でも、コーラでも、コーヒーでもなく。

要するに、つまらない出来事自体をいかに装飾するかではなく、つまらない出来事からいかに思い出と可能性を引きずり出せるか。つまらない出来事を書くときのコツ(今考えた)。

やがて余韻となる

同時につまらない出来事は、だだっ広い余白を持っている。想像のための余白。つまらない出来事自身からすれば、保身のための余白かもしれないが。つまらない出来事にあれこれと余計な修辞を加えることは、この清らかな余白を塗りつぶしてしまうことでもある。

 

タイトル:無題

本文:ごみが落ちていた。

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こんなブログ記事があったとして、これもまた、一見すればつまらない記事に分類してもよかろう。しかしここで想像して頂きたい。このブログは前日まで普通に更新されていた。ブログ主は20代後半のOLで、その日あったこと、食べたもの、買ったもの、仕事のこと、彼氏のことなどを普通に書き連ねるブログだった。それが突然――ええと、どうした?何があった?下書きにするつもりで間違えて公開した?乗っ取られた?会社でめちゃくちゃ嫌なことでもあった?彼氏と喧嘩した?それとも「おそらきれい」的なアレなのか?読者は困惑するだろう。つまらない記事も、状況次第ではめちゃくちゃつまる記事になる。そこでは広ーい余白がいい味を出している。ミステリーの予感。

また一方で、「ごみが落ちていた。」のような記事ばかり3年間1日も欠かさず更新されているブログがあったら、それはそれでつまる。「猫が鳴いていた。」「枝が折れていた。」「氷が溶けていた。」「洗剤が切れていた。」「鞄が開いていた。」「袋が破れていた。」そんなことばっかり毎日毎日365日を3年間続けているブログがあったら、私は是非とも読者登録をしたい。つまらないことの余白を、大いに活用している。余白は成長して、余韻となる。

つまるところ、ごみが落ちていたのです

「ごみが落ちていた。」

私が今日この記事を書いたきっかけは、たったそれだけ。

 

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