珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

考えなければ生きられない生物についての覚書|考えることを考えないことを考えることを考えない

休日は憂鬱で仕方がない!

先日の土曜日は地獄のような休みであった。仕事の日はあんなに気力に溢れていたのに休日になった途端気分が塞ぎ込み、何もしたくない。やるべきことやりたいことはたくさんあるのに、1つも手につかない。あとこれは先日土曜日に限らず休みの日全てに共通なのだけれど、何時に寝て、何時に起きたらいいか分からなくて混乱する。普段は夜勤なので昼寝て夜起きている。休日であれば別に昼起きて夜寝たっていい。というか、本当は昼起きて夜寝たいのだ。しかしそうすると生活リズムが狂って、なんだかもうめちゃくちゃな体調のまま再び連勤を迎える事になる。そしてバイトに行かなくていい分時間が有り余っているわけだけれども、かといって本をいつもの何倍も読んだり風呂掃除をしたり片付けをしたりする余力もなく、ベッドでごろごろしている自分が情けなくて、ただごろごろしているだけなのに無性に腹が減って、アホみたいにかりんとうを貪って気持ち悪くなって自己嫌悪して、なのにまた腹が減って仕方なく豆腐をモリモリ食うけど満たされなくて、キムチを買ってきて一気に食べたらめちゃくちゃ喉が渇いて腹が立って、それでもなんとなく満たされないのでコーヒーと緑茶で腹をたぷたぷにして、ふてくされながらベッドとトイレを往復していた。食事記録記事には「黒糖かりんとう」としか書いてなかったが、こっそり白状すると、大袋を一気に2つ食べた。てへ。

コツコツ考え続けることで疲労資産を何倍にも出来るのです

休日の方が却って気が滅入る、という件については以前も書いた気がする。

shirokuro-044.hatenablog.jp

 こびり付いた睡魔も、まとわりつく肉体の疲労感も、休みの日には一旦脱ぎ捨ててリセット出来る。一方、頭と心はそれに反比例するようにどんどん疲弊していく。以前は休みの日にまでバイトのことを考えていたせいで疲弊していたが、最近はあんまりバイトのことは考えてない。じゃあどうして。私は一体何を考えているの。「私は一体何を考えているの」ということを考えてまた疲弊している。何を考えているのかという疑問は一旦置いておいて、とにかく「何かを考えている状態が延々続いている」ことが、複利のように増えていく疲労感の原因だろう。当時23歳のデカルトは、ドイツのノイブルクという冬営地の炉部屋にて、終日心ゆくまで思索に耽っていたという。終日思索!そんなことをしたら本気で干からびてしまうではないか。思索なんかクソ喰らえだ!お、お前は当ブログの副題!ウワーッ!

 

要は何事も自分の受け取り方次第

 そういえば暫く前に、『考えない練習』という本が話題になった。

考えない練習 (小学館文庫)

考えない練習 (小学館文庫)

 

 実は私も買った……と思う。あまり自信はないけれど、多分、この本だったと思う。もう手元にはない。そしていたく感銘を受けて、その通りに実践していた。世の中に「腹の立つ出来事」「悲しくなる出来事」というものはなく、「その出来事に対して自分が腹を立てている」「自分が悲しんでいる」という自分の中での感情の揺らぎがあるに過ぎないわけだから、目の前の出来事に対してアレコレと考えるのはやめて、その事実のみを見る。「小銭出すのに何十秒掛かってんだよノロノロしてんじゃねえよボケ」と考えるのではなく、「小銭出すのに時間が掛かっているのだなあ(ぼんやり)」で、済ます。みたいな内容だった気がするが、レビューを読んでいると「あれ?この本じゃなかったっけ?」みたいな気がして……まあとにかく、もしかしたらこの本じゃなかったかもしれないが、そういう本を当時、読んだのである。

我々は一体何を考えるべきか/考えないべきか

ところで今の私に必要な「練習」は何だろう。「哲学しない練習」とか「生きる意味について考えない練習」とか「最悪の展開について考えない練習」とか「死後の世界について考えない練習」とか「平行世界について考えない練習」とか。「考えない練習について考えない練習」とか。歳を取ったせいか、目標が無いせいか、毎日無為に生きているせいか、明日の心配来週の心配来月の心配仕事の心配家庭の心配お金の心配老後の心配、そういう考え事が日を追うごとに全て無駄に思えてきて、「宇宙とは……」のごとき身の丈に合わない広大な物事についてロクな頭も知識も無いくせに考えて疲弊するようになった。しかしどうせ疲弊するなら、絶対後者のほうがいい。目の前の人間関係とか金銭問題とか将来なんかについて考えているより、この世とあの世が閉店したあとの新店舗について考えている方が、徳を積んでいるような気分になれるではないか。聖書にこんな一節がある。

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

新約聖書-マタイによる福音書』6章25節-34節

この世が終わらぬうちから

ところでこの世が終わったら、次はどの世に行くのだろう。この世では我々は人型を取り、手足と呼ばれる部分を動かしたり、心という部分で感情と呼ばれるものを味わったりしているけれど、次の世では我々はみなブヨブヨした緑色の球体になって、生ぬるくて少しチクチクする気色悪い液体に68億9378万年浸かっていなきゃいけないとか、そういう世かもしれない。それに比べたら楽しいことがそこらじゅうに転がっていて80年程度で終わる人の世のなんと有情なことか。

魂が肉体から離れたあとはどうなるのか。個人的には、すごろくで駒が1マス分進んだくらいの歩みしか無いと思っている。そもそも肉体から魂がポロッと取れることは、歯茎から乳歯がポロッと取れるのと実はそう変わらなくて、我々人間だけがそれに大騒ぎしているんじゃないかって気がしている。歯がぐらぐらし始めると本当に不快で、いよいよ歯が抜けそうって時は何となく怖くて、抜けるとちょっと痛くて、でもいつの間にかそんな感覚も忘れてしまう……やっぱり歯が抜けるのと魂が抜けるのってそんな変わらないんじゃないかな。魂が抜けたときはちょっと痛かったけど、まあ、抜けてしまえばなんてことはないなって思いながら、次のステージに向かっているのかも。

結局、考えることからは逃れられない

 本当はこう、「考えすぎないためには~」みたいなライフハック寄りの記事を書きたかったのに結局脱線している。考えない練習について考えない練習について考えるのは、また今度。

 

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