珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

ミニマリズムと人生における自分の割合についての覚書|自己(という)資本(の)比率

私がミニマリストのブログを見に行く理由

こんなことを言うと怒られそうだが、私がミニマリストのブログを見に行くときは、ライフハック云々よりもインテリア、もっと言えばアートの側面を期待している。無菌室のような清潔感を味わいたくて、あの真っ白な空気を画面越しに吸い込みたくて、わくわくしながら写真を見に行く。いつもお世話になっております。ほとんど何も写っていない写真が目の保養になるなんて、随分奇妙なことだ。

ただ、「こんにちは!ミニマリストのXXです!」というあのお決まりの挨拶だけは、どうにもミニマライズ出来ないらしい。

私が自称ミニマリストのブログを見に行かない理由

この際なので怒られついでに全部言ってしまうが、私はミニマリストを(右に習え的に)志向する人々が「先週はアレを捨てました!今週はコレを捨てました!来週はソレを捨てようかと思っています!」と躍起になって「捨てる」行為に走っている姿を見たいわけではない。「ほかのモノですか……?えへへ、ありません。これで全部でーす」という、謂わば「既に完成されたミニマリストの姿を見たいのである。ミニマリストとして完成するには当然「捨てる」行為が必要なわけだが、完成されたミニマリスト目指して毎日ウンウン唸って悩んだり頭を捻ったり時には心を痛めたり後悔したりして「捨てる」行為に走っているその姿は、少しだけ怖いなあと思う。家族がいるなら、別の意味で、尚更。

片付け、断捨離、ミニマリズム……

 そも、「ミニマリズム」がここまでブームを巻き起こしたその火付け役は一体誰なのだろう。「片付け」といえば専ら”こんまり”こと近藤麻理恵「断捨離」といえば提唱者であるやましたひでこ、では……ミニマリズムは?

取り敢えずWikipediaを覗いてみたところ、ルーツがめちゃくちゃ壮大だったので腰を抜かしながら己の無知を恥じた。てっきり片付けコンサルタント的な誰かが流行らせた言葉だと思っていた。元は1950~60年代に彫刻や絵画の分野で登場した創作理論であり、その後音楽、哲学、文学、建築などに波及……ヒエーッ。難しい話はまた今度!

※ちなみに、「断捨離」提唱者のやましたひでこ氏は、「断捨離」と「ミニマリズム(ミニマライズ)」を明確に区別しているので注意。以下のご本人のブログ記事では、「モノを捨てること”だけ”」に執着しているような人々をやんわりと非難しています。

ameblo.jp

ついでにこちらの記事も紹介。ヨーロッパ在住の研究者による、シンプルかつ明快なミニマリスト批判。

minimal-hagakure.com

ミニマライズ=人生において自分の割合を増やす行為

ミニマリズムを肯定してるんだか否定してるんだか分からない内容をここまで書いてきたが、今のところは、ミニマリズムに対して中立な立場でいたいと思う。そしてここらで自論を述べさせて頂けるならば、私は「ミニマリズム」の本質は「自分を含めた自分の身の回りにおける自分の割合を増やすこと」だと思っている。なんのこっちゃ。もう少し分かりやすく説明する。

まず、自分の数は「1」。もちろん自分が複数いるならば適宜増やしても構わないが、大抵の人の自分の数は1だろう(自分の数を「0」にしようとすると哲学かメンタルヘルスの話になるのでまた次回)。対して、身の回りにあるモノの数は幾らでも増やしたり減らしたりすることができる。そこで、自分が1であるのに対し、身の回りのモノの数が99ならば、自分の割合は1%である。自分が1であるのに対しモノの数が9ならば、自分の割合は10%である。それが私の考える自分の割合。計算合ってる?

つまり、モノを減らしていくことで相対的に自分の割合を増やしていこう、自分を広くしていこう、自分の面積を増やしていこう、という考え方……なのではないかなあ、というのが今のところ私の考えるミニマリズム。自分が広くなれば、その分たくさん自分を感じられるようになる。自分の人生では、自分のことしか感じることができないのだから、自分の割合が多い方が、きっと豊かになる。

自分の割合を思いっきり減らすことでかえって豊かに生きる人たち

 しかし逆に、自分の割合を極限まで減らすことで、豊かな生活を送れる場合もある。自然の中で(ある程度)自給自足して暮らしたり、膨大なモノを蒐集しそれらに囲まれて暮らす、コレクターと呼ばれる皆様である。

大自然の中では、自分の割合はほぼ0に近くなる。山。森。大地。川。木。土。水。私は山の中で暮らしたことはないけれど、山奥に小屋を建てて暮らしているような人たちは、大自然に溶け込んで極限まで希釈された自分に心地よさを感じられる人だと思う。端的にいえば、「自分はなんてちっぽけなんだろう」「自分の悩みなんて大自然の中では全然大したことないな」というアレ。

テレビ番組に出るような本格的なコレクターの方々も、少なくとも自邸においては、自分の割合はかなり低めだろう。自分:モノが1:1000とか、1:10000とか、そういう比率になる。その空間の中ではコレクションこそが中心であり、言ってしまえばコレクターはそのコレクション形成のための働きアリのようなものだ。彼らが自ら足を運んでコレクションを買い集めたり、情報を探したりしている時、きっと楽しくて仕方なくて、その労苦なんて吹き飛ぶほどのやり甲斐があり、意識はどこまでもコレクションに向いていて、自分の意識がコレクションの海に溶けているのを感じ――いや、溶けていることさえ、自覚していないかもしれない。

 ミニマライズするなら大企業を目指せ

 自己資本比率という金融用語がある。総資本に対する自己資本(他者へ返済する必要のない資本)の比率。バーゼル合意では、国際的に活動する銀行には8%の自己資本比率が定められている。公民で習った気がするやつ。自己”の”資本の比率。この用語を弄りながら転用して、今回の記事の締めにしたいと思う。何のためにミニマリストを目指すのか。何のために身の回りの物品をミニマライズするのか。人生における自分の割合を増やすため。人生の中で自分をもっと感じるため。人生に必要な「自己”という”資本の比率」を高めるため。企業においては、資本金が多い(=大企業)ほど自己資本比率は高くなり、資本金が少ない(=中小企業)ほど自己資本比率は低い傾向にあるらしい。自分という企業をでっかくして、「自己”という”資本の比率」を上げていこうではないか。

 

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