珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

とある凡人が哲学書を読んだ件についての覚書|寝落ちして慌てて書いたので特に中身はないです

難しい本を読むというのはそういうこと

凡人が哲学書を読んで理解出来るようになったら、果たしてその先には光が待っているのかという問い。複雑に絡まり合った無数のコードの中から特定のコードの先端をたぐり寄せるように、或いは一筋の光もない真っ暗な宇宙の中から明かりのスイッチを探し当てるように、或いはこの地球上からエデンの園を見つけ出すように。困難極まりない試みの先に待ち構えるのは、更なる暗がりである。

『言葉』ではなく『心』で理解できた

最近はとある日本人哲学者の本を読んでいる。その本はこれまでに読んだどの哲学書よりも深奥で、抽象的で、もっと言ってしまえば観念的な、もうとにかくちんぷんかんぷんなものであった。ところがある日、大体50ページを過ぎた辺りから、様子がおかしくなった。私の。「あれ……なんとなくわかってきた……」おっ?

本当にぼんやり、天高くそびえ立つ砂山の表面を撫でて砂を払ったようなその程度ではあるけれども、なんとなく、なんとなーく筆者の言いたいことが分かってきた。あーハイハイ、頭で考えることと実際に経験してみることでは、筆者は後者の方が凄いと思っているワケですな。そのくらい。登場する書物や筆者によって定義さえ変わってくるようなふんわりとした哲学用語たちの網を掻い潜ったら、あとは簡単であった。これまでどんなに頭で考えてもピンと来なかったふんわりとした哲学用語たちが、突然明確な意味を帯びて私の感覚になだれ込んできた。理解したのは頭ではなく、感覚。つまるところ「ニュアンス」というやつである。新聞や文学書をパッパと流し読みするように、焦点がベルトコンベアに乗ってスラスラと行をなぞっていった。気づけば追加で10ページ読んでいた。たかが10ページ、されど10ページ。1度も舟を漕がなかった。

純粋(純粋とは言ってない)な物事

そこからどうなったかというと、地獄の始まり始まりといった具合。思惟とは?真なる経験とは?今私が見ているもの感じていることやっていることは全て本物じゃなくて、ええと……ンン?広大な泥沼の中を泥船に乗って進んでいるような航海が始まった。哲学書は船頭でも航海士でもなく、むしろセイレーン側に近い気がする。ギリシア神話に登場する、船に乗っている人々を歌声で惑わせて溺れ殺す怪物。『オペラ座の怪人』にもセイレーンをモチーフにしたそんなエピソードがあったなあ。それはさておき出勤したあと、珍しく自分から「今日は受付にいます」と言った。客が来ていない間は考えられると思って。思惟を経由すればあらゆる物事は純粋ではなくなる。しかし我々の如何なる思惟も経由しない物事とはこの世に存在するのか。それこそイデア界とかそういう別領域から引っ張り出してこなければならないのでは?「純粋経験」というものの定義そのものさえも我々の(というか、筆者の)思惟を存分に経由しており、思惟に塗れた定義からなる「純粋経験」と、思惟にまみれた定義から成る「純粋経験」に合致する「純粋経験」は果たして「純粋経験」なのか?ふと、声をかけられる。「あのーすみません、初めて来たんですけど……」入店?あとにしてくれ!思索で忙しいんだ!

迷宮への年間パスポート

哲学書が示してくれるものは理解への道のりではなく、更なる迷宮への入口である。読みながら、もしくは読んだあとに「なるほどね!じゃあ明日から実行してみよう!」となるような類のものではない。それ故に、何よりも効果的な現実逃避の薬であると思う。深いものについて考えている間だけは、浅いもののことを忘れられる。西洋、東洋、古代、中世、近世、近代……我が家にはたくさんの迷宮への年パスが用意されている。迷宮入り放題である。さて、今日こそは哲学書というふるいにかけられて落ちてきた、サラサラとしたものだけを掴み取ってみよう。このサラサラしたものだけをおいしい牛乳で練って、深遠なるクッキーを作ろう。手を伸ばして掴み取った瞬間に指の隙間からこぼれ落ちて、風に吹かれて、おやおやどこかへ行ってしまった。ウーン、今日も失敗か。空を見上げる。そこにはふるいに引っかかった黒くてゴツゴツした歪な物体が山程乗っかっている。やれやれ、結局今日のおやつもアレになるのか。現実は真っ黒に焦げた焼き菓子の味がする。

 

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