珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

「当たり前」の有効範囲についての覚書|たった1つの言葉の中にあらゆる人間を包摂すること

自省します

反省は思わぬところからやってくるものだ。私は今とにかく省察をせねばならぬ。今日は〈今 週のお題〉記事でも書こうかと思っていたが、それどころでは無くなった。

バイトの休憩中に購読中のブログ欄を眺めていたら、「当たり前の基準とは一体何か?」といった旨のタイトルが目に入った。私はその数時間前に以下のような記事を投稿していたので、どうにもその記事が気になって見に行った。そして記事内容をすみずみまで拝見したあとで、少しだけ考えを巡らし、自分のブログ記事を読み返した。

shirokuro-044.hatenablog.jp

なるほど。なるほど。ウーン、ぐぬぬ。こりゃいかん。あのすみません、ブログを更新しなければならないので早退します。卸さない問屋をぶん殴って気絶させてでも帰宅したい気持ちを抑えてアプリのメモ帳にあれこれとしたため、退勤後は寄り道せずに早足で帰ってきた。そのメモ帳を見ながら化粧も落とさずキーボードを叩いているわけだが、寝落ちする前に至急2点の反省と2点の思索を記しておこうと思う。

反省1:特に中身を定めないまま「当たり前」という言葉を多用した

記事の副題にも既に含まれているのだが、この記事の中には「当たり前」という単語が何度も繰り返し登場する。当たり前。当たり前。「当たり前」という言葉を当たり前のように連呼しているが、その「当たり前」とは一体何なのだという話。

自己啓発ハイの状態から一度クールダウンして、肩を揉み、目薬をさし、牛乳でも飲みながら落ち着いて読んでみよう。大体、当たり前のことしか書いてない。

当たり前のことを書いて人をほほーと言わせるのは非常に難しい。文学作品以上に文学している必要がある。それが出来るのは間違いなく才能であって、我々はその才能にお金を払っている。

 な、内容が……無いよう。ただ1つ弁解させてもらうとすれば、この記事においては「当たり前」の内容それ自体は特に重要ではなく、別に個々人が想像する「当たり前」で構わないということだ。それで問題なく読んで頂けるのである。多分。家に帰ったら手を洗ってうがいをしましょうとか、鞄の中の書類は整理しといた方がいいですよとか、そのくらいのレベルで構わない。

反省2:「当たり前」よりも適当な言葉がないか探そうとしなかった

今この記事を書くのであれば、「当たり前」の部分を「ありきたり」とするだろう。「当たり前」では独断的というか偏見じみているというか、そういう意味合いが強すぎる。よくある、風変わりでない、あちこちで見かける。そのようなニュアンスを表現するのに「当たり前」という言葉を使うのは不適当だ。何故ならあんまりない、風変わりな、珍しい、といった少ないが確実に存在する周辺の事柄をバッサリと切って捨てているようなものだから。「ありきたり」にすれば捨てずに済む。今からでも変更したい。していい?ダメ?まだ24時間経ってないからセーフじゃないですか?

 

あんまり反省してると自分の記事が嫌になるのでこの辺にしておいて、他に色々考えてみることにする。

 思索1:「当たり前」の中にどのくらいの人間を包摂するべきか?

ここは結論というか、すっぱり諦めから入ろう。私はあの記事中の「当たり前」に、全ての人間を包摂することは出来ない。あの記事中の「当たり前」には、「自己啓発本を好んで読むような人間」しか包摂することが出来ない。私は「当たり前」という単語に全ての人間を包摂するだけの知恵も知識も語彙も紙面も時間も慈愛も温情も配慮も持ち合わせていない。だから、上の記事中の「当たり前」という単語には、「自己啓発本を読むような人間」だけを包摂した。そういうつもりで記事を書いた。 私は記事中の「当たり前」に「文字が読めない人間」は包摂していないし、もちろん「赤ちゃん」も「寝たきりの老人」も包摂していない。彼らへの配慮もしていない。私の能力では出来っこないのだ。

高校生2人の「数学の宿題やった?」「当たり前じゃん」という会話を想像してほしい。その「当たり前」は一体誰を包摂しているのか。世の中の全ての人間を包摂して「当たり前」と言ったのか?学校に通えない人にとっても、数字が読めない人にとっても、鉛筆が握れない人にとっても、彼らが昨日学校で受け取った数学の宿題のプリント・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(隣町の高校の数学の宿題でも、本屋に売っているテキストでもない。彼らが受け取った・・・・・・・・プリントである)をやることは「当たり前」なのか?そんなまさか!この場合の「当たり前」が包摂出来るのはせいぜい「彼らのクラスの人間」くらいである。きっと数学教師が鬼のように怖いのだろう。或いは逆に、宿題さえやっていれば点をくれる優しい教師なのかもしれない。

 思索2:「当たり前」からこぼれる人間をどう扱えばいいか?

 事前に申し上げておくが、これは断じて社会福祉の話ではない。ポロっと書いたブログからポロっと出てきた「当たり前」という言葉とその周辺のモロモロについての話である。これを社会福祉のことと捉えられると話がめちゃくちゃセンシティブになるのでどうかお止めください。

 毎日ユーウツで生きているのがやっとな層にとっての「当たり前」と、毎日仕事をバリバリこなしプライベートも充実していて上昇志向に満ち溢れている層にとっての「当たり前」は違う(当たり前・・・・)。 例えばある日、後者側の人間の「当たり前」にフォーカスした記事をアップしたら、前者側の人間から「何が✖✖は当たり前だ!ふざけんな!俺にとっては当たり前ではない!恵まれすぎている!」と怒られた。どうすればいいか。……どうすればいいんですか?

もしあなたが神か救世主であるのなら、今すぐどちらも幸せにしてみせなさい。もしあなたが国家であるのなら、ウオオ税金返せ!……ではなく前者のような人間を生まない社会を作りなさい。どちらでもないのなら、どこかで踏ん切りをつけなきゃいけない。人間は人間をどこかで区切って自分が抱えられるくらいの大きさにしなくちゃならない。人間に関する文章はどこまでも広がっていく。どこまでも広がっていくから、「ここ」と決めた大きさ、自分の手の届く範囲にまで裁断しないと終わりがやってこなくなる。社会福祉の話ではありません。ブログ記事からポロリした「当たり前」という言葉の話です。

この先、あなたのことも包摂出来ないかもしれないから

もし以上の考えが100%私のエゴであるならば、私は自分の主張を屁理屈であると認めて素直にしょんぼりしよう。そして次からは記事の冒頭に毎回「この記事は『自己啓発本を好んで読むような人間』のみを包摂して書かれたものであり、『自己啓発本に興味がない人間』や『自己啓発本が憎い人間』『自己啓発という言葉を知らない人間』『本を買うお金のない人間』『本を読む能力を持たない人間』『本という物質さえ知らない人間』などは包摂されておらず、また彼らを傷つけないよう様々な言葉のクッションを敷いて隅々まで配慮し優しくフォローするだけの器量が私にはありません」といった類の注意書きをせねばなるまい。

 自己の内にありとあらゆる人間を包摂し、それらを1つたりとも手放すことを許されない巨大な存在が、自己の内に包摂したありとあらゆる人間に配慮し顔色を伺いながら一生懸命当たり障りのない言葉を選び慎重に行動したとしても、不幸にしてそこから外れた人間から「お前は私を包摂していない!」と糾弾される。例え何十年、何百年とかけて言葉を選んだとて、結果は同じだろう。だから私みたいなちっぽけなクソ一般人が、ありとあらゆる人間をその主張の中に包摂してその上で彼らに配慮しようなんて初めから不可能なのである。国――いや、世の中ってそんなモンだよね。

 

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