珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

「大人」についての覚書|ある日突然「大人」になった

大人は辛さをどう処理するべきか

辛い時でも「辛い」とは言わずに我慢するのが大人で、すぐ「辛い」って言っちゃうのが子供だと思っていた。でも実際のところ、現実の世界では、辛いと感じたら適切なタイミングで「辛い」と申告出来るのが大人で、すぐ「わざとらしいアピール」に走ったり自己憐憫の世界に閉じこもったりするのが子供である、と言い表した方がぴったり合うだろう。これがきっと、大人の世界における大人と子供の違いなのだ。前者は子供の世界における大人と子供の違い。見よ子供たち、大人はそんなに強くない。

子供の延長

私ももう随分といい大人だが、未だに親の前だと最悪の形で子供に返ってしまう。心配を掛けたくない気持ちと心配してもらいたい気持ちがカフェオレみたいに混ざり合って、時々元気なさげに振る舞っては、気遣いの言葉をきっぱり元気に否定する。絵に描いたような「わざとらしいアピール」である。もう本当に、何をやっているのやら。いつもいつも次は止めよう、辛いなら辛いと言うか元気なフリを貫くかどちらかにしよう、と思う。けど結局は、「わざとらしいアピール」に終始してしまう。これまで散々構って貰ったのに、まだ構って貰い足りないらしい。見よ子供たち、大人だって誰かの子供。

保育園兼介護施設(ではない)

癇癪持ちの常連客、掃いて捨てるほどいる。出来るものなら本当に掃いて捨ててしまいたい。それも大体、50代とか60代とか。先天的な形質なのか後天的な形質なのか知る由もないが、その歳になるともうどうしようもないのだ。変えてやりたくても変えてやれないし、変わりたくても変われないのだ。他のお客様に迷惑が掛かっているので……とやんわり注意しに行くと「ぼくじゃない!!ぼくだけじゃない!!あいつも迷惑かけてる!!」と癇癪起こして受付に怒鳴り込んでくる61歳の子供を私はどうしたらいいのだろう。ぼくだけじゃないかもしれないけどぼくも迷惑掛けてるわけだから素直に反省して頂きたいものだ。見よ子供たち、大人って……大人って、なんだろう。

大人はいつから大人してるの

私の大人の人格はいつ作られたのだろう。大人の人格は大人の人格が作られる前に作られるので……まあ多分子供の頃に作られたのだろう。ここでは少年とか青年とか面倒な区分は一切無しにして、「子供」と「大人」についてだけ考えることにする。私の大人の人格はいつ出来たのって、両親に聞いたら分かるだろうか。大人の人格は知らず知らずのうちに作られていて、完成してもそのときは全く気付かない。身体が作られる時に成長痛という形で足が痛むように、人格が作られる時だって、自分という器がミシミシ軋んで痛む筈なのに。子供がその痛みに気づかないのは、純粋さという麻酔があるから?大人が人格を変えられないのは、純粋さという麻酔が無いから?人格が形成される激しい痛みに、麻酔を持たない大人が耐えられるものか。では私の純粋さはいつ失われたのだろう。疑問は尽きない。赤ちゃんは泣くのが仕事だというのなら、大人は失うのが仕事である。見よ子供たち、ま~た大人がなんかポロポロ落としてますよ。

 大人の特権

先日、朝のスーパーで、これから出勤と思われる30代くらいのサラリーマンの男性が、手に暴君ハバネロの袋1つをしっかり握ってレジへ向かっているのを見た。それで、うんうん、という気持ちになった。出勤前にブラックの缶コーヒーを流し込むだけが大人ではない。出勤前に喫煙所で一服するだけが大人ではない。そう、大人は出勤前に暴君ハバネロを買ってもいいのだ。車の中でボリボリ食べて何食わぬ顔で出勤してもいいし、職場に持って行って昼休みにボリボリ食べてもいい。勿論、帰りの楽しみに取っておいてもいい。大人は仕事前にたべっ子どうぶつをムシャムシャ食べてもいいし、ビスコをサクサク食べてもいいし、もぎもぎフルーツをもぎもぎしてもいいし、パックンチョをパックンしてもいいし、ねるねるねるねをねるねるしてもいいのだ!

見よ子供たち。大人なんて、大体そんなかんじ。

 

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