珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

ただの亡者についての覚書|絶望のてっぺん獲りにいこう

無いものは仕分けられない

ボーナスの仕分けをしている記事を興味本位で覗きに行って……案の定撃沈した。止めておけばよいものを、好奇心が勝った。私は毎月ほぼ等しく増え等しく減り等しく残る自身の口座残高に思いを馳せた。安定した数字とは良いものだ。それなのに人によっては年に1度か2度、ボンと数字が増えることがあるらしい。いやだわ棒茄子なんて。季節はずれの精霊馬でも作るおつもりなのか。

curazy.com

おハーブ生えるとかいうレベルじゃない。

 世間様の水準の高さに救われる

そういえば先日、未納分の年金の免除申請に関する審査結果が届いた。結果は……「全額免除」。え……ええ……。正直、嬉しさよりもショックの方が大きかった。前年度は全額免除が適用されてしまう程度の収入しか無かったということだ。今年度はかなり無茶をしているのでそうはならないだろう。アッ無茶と言ってしまった!

とはいえ最近は再びお金への執着が薄れているというか、色々始めようと思っていたことにもまあいっか、みたいな気持ちになって、一体全体何のためにキリキリ労働しているのか段々分からなくなってきた。「休日まであと何日」というカウントもしなくなったし、「給料日まであと何日」というカウントもあまりやらなくなった。貯めるぞ増やすぞという情熱も少なくなったし、コンビニやドンキで要らん買い物をした自分を問い質すこともしなくなった。金の亡者から金への執着を取り上げたらそれはもうただの亡者である。ただただ毎日死んだまま生きたり、生きたまま死んだりするだけの肉の塊である。はあ、そうですか。なんだかご愁傷様ですね。……えっ私死んだんですか?

死んでますね

 なんてこった。どうやら私は死んだらしい。近頃はなんの目的も生き甲斐も無いただの亡者としてぷらぷら現世をほっつき歩きながら税金を支払っているだけである。 そういえばなんだか以前も物欲に関する記事を書いた気がする。

shirokuro-044.hatenablog.jp

そも、私は欲とか執着から開放されて、欲しいものがどうこうとか、お金がどうこうとか、そういうのを捨て去って、楽になろうとしていたのではなかったのか?形として残るモノを殆ど買っていなかった頃は、妙な虚無感こそ有ったものの、欲しい欲しくないお金が有る無いで悩まされることが無かったので非常にラクだったと思う。

 ミニマリストか、或いは宗教家の走りのようなことを言っている。なんやコイツ。あっ皮肉じゃないですよ。お金と欲求に関する考え自体は、ひと月前と何ら変わっていない。お金にもモノにも執着していない時が最も心穏やかだ。結局、この世においては死んでいるのが1番ラクな生き方なのだ。もしかすると、ひと月後には妙なやる気を出して再び金とモノに振り回された生活をしているかもしれないけれど、出来ることならそこには戻りたくない。亡者でいたい。ずっとファタリティキッズ。大好きな空虚に囲まれて。

 絶望のいちばんオイシイところ

考えるに、私のような金も才も無い一般人が小難しい修行無しに欲と執着の世界から脱するには、やはり絶望が1番効くのではないだろうか。死んだまま生きるか、生きたまま死ぬかはお好みで。なんとなくだが、前者には憂鬱を、後者には絶望を、より強く感じる。人によっては逆かもしれないし、憂鬱と絶望の何が違うんだという人もいるだろう。他愛ない余談ということでここはひとつ。

しかしながら絶望にメリットを見出そうとしている時点で真の絶望からは程遠いのかもしれない。ならばこれは……偽の絶望?ウーン。確かに今の私は「絶望している人間」というより「絶望屋」だし、もっといえば「キラキラ絶望系女子」くらい明るく絶望している。それって絶望なのか?私は思いのほか、上手くやっているのか?鉄棒にぶら下がって体をぶんぶん揺すって一回転して、パッと手を離しそのまま放物線を描きながら飛んでいる、その放物線の丁度てっぺんにいるのではないか?まさに今、絶望の最もオイシイところにいるのではないか?叶うならば永久にそこに留まっていたい。私の身体よ、落ちてくれるなよ。

世の中に物申したい人は『学問のすゝめ』を読もう

今丁度『学問のすゝめ』を読んでいたのだが、福沢諭吉は欲求手放したいマンには否定的のようだ。日本を代表する啓蒙家なんだから、そりゃそうか。欲求無しに人民の独立が成し得るものか。

第三、人には各々情欲あり。情欲はもって心身の働きを起し、この情欲を満足して一身の幸福を成すべし。譬えば人として美服美食を好まざる者なし。されどもこの美服美食は自ずから天地の間に生ずるものに非ず。これを得んとするには人の働きなかるべからず。故に人の働きは大抵皆情欲の催促を受けて起るものなり。この情欲あらざれば働きあるべからず、この働きあらざれば安楽の幸福あるべからず。禅坊主などは働きもなく幸福もなきものと言うべし。

福沢諭吉『学問のすゝめ』p.86(岩波文庫、1942)

その 情欲に突き動かされるのがマジで辛いんですよ福沢先生。どうにかなりませんか。

 

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