珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

文章という放蕩息子についての覚書|文章のゆりかごから墓場まで

生まれる前に死んだグループ

以前、こんなグループを立ち上げようと思っていた。

(グループ名は未定) (以下グループ概要)

参加要件:【読者数100人未満】【モノ書きである】【ちゃんと自分から読者登録しに行く】【誰かが読者登録してくれるのを待たない】【時折記事に目を通す】読者数100人未満のモノ書き限定のグループです。相互に読者登録をしましょう。貴方の読者登録で救えるモノ書きがいる。貴方の読者登録で救われたモノ書きが紡ぐ美しい作品がある。小説、詩、日記、備忘録、エッセイ、書評、人文学、言語学、哲学、エトセトラ。モノ書きの基準は「自分の考えを文章にしている」こと。実用的なお役立ち情報(ライフハック)などがメインの方は参加をお控えくださいませ。サブ程度ならOKです。グループに参加したら、なにはともあれ誰かの読者になってください。もう一度言います。誰かの読者になってください。時間があったら、その人の記事も読んでください。もし記事を読んだら、スターもぽいぽい投げてしまいましょう。沢山投げましょう。相手が怖がらない程度に。投げられたら、ぽいぽい投げ返しましょう。飛び交うスターはきっと綺麗でしょう。モノ書きの生命はそうして長くなるのです。そして読者数が100人を超えたら、グループを卒業してください。先に言っておきます。あなたの書いたモノは、100人が見てくれています。あなたの作品は1人ではありません。卒業おめでとう。

こんなグループを立ち上げようと思って、概要をここまで記事に書いて取っておいたのに、いざ開設しようとしたら、グループを作れるのはPro登録者だけと言われて膝から崩れ落ちた。クレカが届いてPro登録するまでこのまま下書きとして残しておけばいいかと思ったら、恐れ多いことに、立ち上げる必要性そのものが無くなってしまった。なんやかんやあって使えなくなっていたカードがあと1週間程度で手元に届く。すぐにProへアップグレード……とはならないだろうが、果たした折にはこの文章を改変して、何かグループを作るかもしれない。その時はよろしくお願いします。

 

 生まれる前に死んだ記事

以前、このような記事を書こうと思っていた。「以前、こんなグループを立ち上げようと思っていた」という記事を、以前書こうと思っていたのだ。ウーン自分でもぐちゃぐちゃになってきた。要するにまあ、上の文章全体が、かれこれ1ヶ月以上前に書いたものである。クレジットカードが「あと1週間程度で」手元に届く、と書いているが、届いてからもう3週間近く経過している。

 

 生まれる前に死んだ記事について書いた死んだ記事

……という文章を、10日ほど前に書いたのである。クレジットカードが手元に届いてから1ヶ月近くが経過している。もう安心して頂きたい。あなたの読んでいるここが、この文章が、現在である。先延ばして、先延ばして、完全に賞味期限の切れた文章を、恥知らずにもこうやって公開しているわけだ。

それにしたって、どうして時間の経った自分の文章というものはこうも奇妙に見えてくるのだろう。文章は私の手を離れた途端、私を生みの親とも思わず自分ひとりで生まれてきたような顔してこちらを一瞥し、好き勝手に出歩いてはあっちこっちで喚き立てている。足もないのに歩き回り、口もないのに言って回り、顔もないのにデカい面して……生みの親に恥をかかせながら食うメシは美味いか?美味いか。そうか。書き手の価値観は本人が意識しようがしまいが日々アップデートされている。昨日はと言っていたものを今日はピンクと言っているくらいならまだ良いが、昨日はと言っていたものを今日はと言っていることだってある。書き手は変わっていくのに、残された文章は変わらない。文章は他人を変えることは大得意なくせに、文章自身を変えることだけは出来ないのだ。

「ごみばこ」

私は記事を書いている途中で方向転換したりしっくり来なかったりして切り捨てた文章たちを、いつか使えるかもと思いながら「ごみばこ」という下書き記事の中にストックしている。そしてそれを時々開いて眺めては、「うーん、これはごみ」と嘆息してページを閉じる。でも「ごみばこ」そのものを削除できない。使わないのだから定期的に廃棄処分すれば良いのに、なかなか出来ない。何故か。書いた当時からしてみれば、わざわざこんな「ごみばこ」の中に放り込んで保存しておくくらい、その「ごみ」に対してどうしようもなく愛着があるのだろう。それか「うまいこと言ってやったぞ」みたいな傲慢。

 折角なので今回はその「ごみばこ」の中から、何点か取り出して他人事のように解説してみようと思う。自分がボツにした文章を自分で掘り起こして自分で添削するという異例の試みである。マゾかな?

 

世の中には2種類の「日」がある。給料日と、給料日じゃない日だ。

 わざわざ太字にしてあるくらいだから凄く強調したかったのでしょう。お金に執着していた頃の文章ですね。惨めなほどに「うまいこと言ってやったぞ」顔が透けて見えるようですが、別になんにもうまくありません。

 

突然だが私(あなたでも)は今、愉悦に飢えているとする。猛烈に愉悦を欲している。来る日も来る日も四方八方からストレスを与えられ続けた精神は醜く歪んでしまった。とにかく愉悦が欲しい。愉悦。愉悦。嫌いな上司と嫌いな上司がコロッセオで殺し合う様をポップコーン片手に観戦したい。投資に失敗した妻子持ちサラリーマンが貯蓄を全て失った上に莫大な借金まで背負ったその瞬間を見たい。

 めちゃくちゃ物騒なんですけどこれを書いた頃の私はどれだけ荒れていたのでしょう。

 

 毎日なんにもすることがない人にとって、ちょっとその辺に食事に行くとか、そういうことでも人生の一大イベントのような

これは、書きかけですけど分かりますね。ところで当然ながら、まことの意味で「なんにもすることがない」人なんていないのです。生きるのなら、ご飯を食べなくてはいけないし、余程の金持ちでもなければご飯を食べたあとは自分で食器を洗わなきゃいけないし、他にも洗濯とか、掃除とか、風呂とか、買い出しとか、屁理屈を言えば、息を吸ったりもしている……ああええと、これは「なにかをしている」ことに含まれるのでしょうか?現代社会の中で生きるための最低限度の行動は、「なにかをしている」ことに含めてもいいのでしょうか?「休みの日って何してんの?」って聞かれて「ご飯を食べたり食器を洗ったり、あとは洗濯をしたり掃除をしたり風呂に入ったり買い出しをしています。あと息も吸っています」と答えることが許されるのでしょうか?やはり「なにもしてないよ」と答えるのが最善なのでしょうか?「なにかをしている」という水準が高すぎて泣きそうです。

 

少なくとも私個人にとって、雨の日は意識的に(それも非常に強く)「しよう」と思わなければエンジョイできない日であって、そんな日はもう憂鬱に身を任せてガーガー喚いていた方がよっぽど楽なので、わざわざ「エンジョイする方法」を考えたりなどしないのである。が、たまには普段の自分のポリシーとは異なることを考えるのも必要なので、気乗りしないが考えてみる次第である。

 はてなからのお題、確か「雨の日をエンジョイする方法」的なやつ、を書こうとして、イマイチしっくり来ず毎日頭と首をひねっているうちにお題が変わってしまったのでボツになった文章、その一部です。エンジョイ出来ないものを無理にエンジョイしようとするからガタが来るのです。

 

立てたラップの芯の穴にビー玉を入れると落ちる 

ニュートンにでもなりたかったのでしょうか。

 

時には文章を供養してやるのも良いものだ。などと言うと勝手に殺すなと文章たちから苦情が来そうである。こう……生きたまま(?)、成仏をお祈りする(?)みたいな……それに相応しい良い言葉ありませんか?

 

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 生まれる前に死んだ記事について書いた死んだ記事について書いた死んだ記事が生まれた

 ……という記事を、5日前に書いたというお話だったのさ。

 

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