捨てたり捨てなかったりすることについての覚書|思い出を処分するときの柔らかな痛み
どこに出しても恥ずかしくない立派なツイ廃
使わなくなったTwitterのアカウントをどうしようかと考えている。2010年10月から利用していたアカウントで、24万件のツイートがある。この9年弱の期間に起こった出来事ほぼ全てが記録されていると言っても過言ではなく、無料のサービスによくもまあここまで人生をぎゅうぎゅうと詰め込めたものだと自分でも思う。そのアカウントを、潔くすっぱり消してしまうか、一応残しておいて時々ブログのネタ探しにでも使ってやるか、悩ましく思う次第である。
実体のないものが実体のないものに宿る
9年。9年だ。私の人生の10分の1よりおそらくは多いであろう年数の出来事が、あのアカウントに詰め込まれている。あのアカウントを掘り返せば、大学に合格した時のツイートも、大学を退学した時のツイートも、全部出てくるのである。怖っ。それに9年の間で熱中したジャンルも移り変わり、フォロワーもフォロイーもごっそり入れ替わった。最後のフォロワーもソシャゲ辞める直前に全員切っちゃったので今はフォロワーらしいフォロワーもいない。
「モノには思い出が宿る」というけれど、SNSアカウントそれ自体という実体のないものに思い出が宿ってしまって、もう、なんということをしてくれたのでしょうという気持ちでいっぱいだ。アカウントが思い出ツイートで構成されているのではなく、アカウントそのものが思い出なのだ。仮にツイートを全削除しても、空っぽになったアカウントそのものがまだ最後の思い出として生き残ってしまうのだ。扱いにくいったらありゃしない。少しだけちぎって取っておくことも出来ないし、火を点けてお焚き上げすることも出来ない。ああでもTwitterに限らず、現代においてはこういう実体のないものの処分も要求されるのか。実体のあるものと実体のないもの両方に構ってあげるのはしんどいな。旧きアナログ人間に回帰するか、いっそ自分自身が実体を持たないデジタルな存在になってしまいたい。
部屋がどんどんよそよそしくなる―そのうち入れなくなりそう
話は変わるが、近頃は黙々と部屋を整理して、長年持ち続けてきたものを捨て、理想の部屋を作るためにあれこれと新しいものを増やしている。全体はまだ雑然としているものの、モノトーンアイテムがどんどん増えて、部屋から色が消えていくのを見るのは清々しいものだ。ところがこれらの新しいものたちに思い出が宿っていく気がどうにもしなくて、なんだかぞっとする。彼らは部屋を整えるためだけに連れてこられたインテリアのエリートだが、偶然出掛けた先で偶然見つけて偶然購入したという偶然の縁でここにいて、ぶっちゃけ別に彼らじゃなくてもいい。こう意識した途端に惚れ込んで連れてきたはずの彼らが非常によそよそしく冷たい存在に見える。鑑賞はさせてくれるし近くにも居させてくれるが、そこに手を加えることは許してくれない。読み取り専用ファイルみたいな。
”すべてを捨てた”
先日読了した田口ランディのノンフィクション作品『パピヨン』にこのような場面がある。
茨城の実家を処分し、湯河原のマンションに移り住んできた父の家財道具は、どれも私が子ども時代に慣れ親しんだものだ。物持ちのよかった母親のおかげで、50年の歳月に耐えてきた茶だんすや鏡台は、見ているとやはり懐かしく、すっかり忘却の彼方へ追いやっていた家族との思い出が蘇ってくる。死んだ兄が中学時代に工作で作った状差しまで、大事に使われていた。私が修学旅行で買ってきた筑波山のカエルの置物もとってあった。父の誕生日を祝った湯飲み茶わんや、母の日に贈った化粧ポーチまであった。
それらすべてを捨てた。私に必要なものはなにもなかった。私には私の生活がある。18歳の時に捨てたはずの家を、この年になってもう一度捨てるとは思ってもみなかった。
茶だんす。鏡台。状差し。置物。茶わん。ポーチ。それらがあたかも私の目の前に並んでいるような錯覚を起こした。これらについての写真もなければ、詳しい描写もない。色も、形も、大きさも、何も分からない。しかしこのページに目を通しながら、田口ランディがこれらの物品をずらりと従えて私の前に現れ、「これはね……」と1つ1つ説明してくれているような、そんな感覚に陥ったのだ。そして――「それらすべてを捨てた」。この一文が、私の見ていた温かな幻を一瞬にして攫っていった。茶だんす。鏡台。状差し。置物。茶わん。ポーチ。全て私の前から消えた。田口ランディの幻も消えた。それらに染みついた汚れとほこりの幻だけが少しだけ長く輪郭を留めていたが、それもすぐに消えてしまった。しばらくの間、私は身動きがとれなかった。喪失感という釘に背後から勢いよく打ち抜かれて、私はそのページに縫い付けられた。標本箱の中の蝶(パピヨン)のように。赤の他人のかつての持ち物が幾つか、この世から永久に消失したという、たったそれだけのことなのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。悲しい。悲しくて悲しくて仕方がない。私の心ごと、あれらの幻が連れ去ってしまった。いや、私の心が着いて行ったのだろうか。田口はこう続けている。「私に必要なものはなにもなかった。私には私の生活がある」と。それなら、いいじゃないか。そうだろう?
間違いなく死んだはずのたんすが突然息を吹き返した気がして怖くなる
たんすを処分しようと思っていた。子供の頃からずっと使っていたもので、シール痕だらけの傷だらけな上に完全にガタが来てあちこちの板が外れ、もはや6段中使えるのは3段しかない。部屋を圧迫するばかりの置物状態で、中には1着の服も入っていない。昨日まで、未練なんか全くなかった。なんとかして今月中に捨てるつもりだった。
参った。
ひどく捨てづらい。