休む練習についての覚書|休もうとして休んでみたり休むために休んだのに休めなかったり
答えは得た
確信した。私は確信した。これは確かなことだ。確からしいことではない。
休日鬱は確実に存在する!
地獄の36時間
降って湧いた休日であった。あまり気乗りしない休日であった。しかし休みになってしまったものは仕方がないので、なんとか休みを満喫しようとして……またもや失敗した。帰宅後から次の労働までの約36時間、終始グロッキーと形容するに相応しい状態であった。身体が動かなくて、頭も真っ白で、何も手につかなくて、洗顔入浴も出来ないし、掃除洗濯も出来ないし、本も読めないし、ブログも書けないし、実況動画も見れやしない。いつの間にか寝て、いつの間にか起きている。やれることといえば、ひたすら宙を眺めるか、Pixivでイケメン同士のチューを眺めるかの二択であった。辞めたソシャゲに超~~~ストライクな新キャラが2名も追加されていたのだけれど私は一体どうすれば良いのだろう。スマホ画面に映るスケベなイラストや小説をぼんやりと、しかし穴が開くほど見つめながら、私は虚無の海をぷかぷかと彷徨っていた。そして気づけば、食パンに菓子パンにスイーツ、それと近頃は滅多に買わなくなったはずのスナック菓子やチョコレート菓子を大量に買い込んで、モグモグモグモグと咀嚼している。いつ買いに行ったんだろう。まあいいや。カロリー?それもまあいいや。モグモグモグモグ。(たぶん)うめえ。
これ以上私のことをつらつら述べても面白くないので、昨晩1番面白かったところだけ抜粋すると、人生で初めて眼鏡をかけ忘れて家を出た。ちなみに、私の視力は0.1も無い。0.05あるかも怪しい。もちろん途中で慌てて引き返した。そしてバイト先に着いた途端脳天真っ二つ待ったなしの激しい頭痛、揺れる視界、落ちる瞼、もつれる足、回らぬ呂律……は、労働をしていたら完璧に治った。やったぜ。
休日という言の葉を辞書で引き辞書で引いては溜息をつく(57577)
もう本当に駄目だと思った。休日に休日らしいことが出来ない自分が本当に嫌で、いかそうめん(生)のようにテローンとなった手足を持て余し、無様に開け放った口から空気を吸ったり吐いたりしながら、頭の中で駄目だ駄目だとそればかり唱えていた。昨晩のバイトも行かないつもりだった。行かずにこのまま籠城し続けて誰にも気づかれずに死ぬか、通勤路の途中にある川に身投げして死んでやろうと本気で考えていた。本気でだ!まあそういう気分も労働で2、3時間体を動かしたらさっぱり晴れて、お疲れ様でーすと爽やかに退勤して、こうやってブログを書いているわけだけれども。
私、これから先、休みの度にこんな気分になるの?
おばあちゃんその話題の記事はこの前も書いたでしょ
似たような記事は過去に何件か書いている。
うわっおんなじようなことばっかり言ってる。恥ずかしい。この記事も恐らくまたおんなじようなことばっかり書くと思う。恥ずかしいのでここで切り上げたい。
ワーカホリックという言葉をアルバイターに適用していいのか分からないし、そもそもワーカホリックなのかも分からない。ただ単に休日するのがヘタクソなだけで、相対的に平日のほうが上手にやれているというだけかもしれない。客は嫌いだ。でも客相手にイライラしたり(しなかったり)している方が、休日にベッドの上でいかの天日干しみたいになって塞ぎ込んでいるよりずっと、ずーっとラクなのだ。接客は嫌いだが雑用は好きだし、とにかく今は店内のあちこちが地獄の様相を呈しているため、片付けたくて仕方がなく、気分が乗った日は退勤してから30分くらい倉庫をゴソゴソしている。一応全国チェーンであるにも関わらず現状責任者らしい責任者が不在でこの店は一体誰が経営しているのだろうという本当にアンビリーバブルな状態なので、本部から来た通達の日付を来るたびに確認して、消化出来るところは消化し、投げられるところは誰かに投げ、周知する事項は周知して……まあ、そういうのが満更でもないのだ。誰もやる人がいないからね!
「うつ」と「休むこと」についての記事
ここまで自分の近況だけで突っ走ってしまったので、ここから先は有益な情報を引っ張りつついつも通り思索してみようと思う。
私はすぐケロッと立ち直るのでその手の心配は全くしてないのだけれど、やはり「休日に休日できない」というのは何かと危ないらしい。
うつ状態に入ると「休む」ことができなくなるのです。生産性がないだけの1日は「休日」とは言えません。仕事も趣味もやれていないが、かと言って休めてもいない。この無為な疲労の蓄積が、少しずつ人間を蝕んでいきます。
そんなときにいちばん最初にするべきは「何もしない」ことです。「自分は今不調である。だから何もせず休む」というのは、意志ある行動なのだと理解してください。
「自分は何もできない」ではなく「何もしないをやっている」のです。この考え方ひとつで回復量は別物に変化します。
どうやら私が思索する必要はなさそうだ。私が欲しかった結論は全てこの記事に詰まっている。なるほどライターは借金玉氏。大分前にTwitterのアカウントをフォローしていた。なんかあちこちとツイバトルしておられた記憶はうっすらある。
休む不安と休む勇気
ところがこの記事だけで安心を得るには大きな壁があって、私もそうだし大抵の人はそうだと思うのだが、「休む勇気」をエイヤと出すこと。これがまた難しい。
「休む勇気」というのは、単に会社員が有給を申請する勇気とか、フリーターが労働日数を削る勇気とか、そういうのじゃなくて、「これから取り掛かる『休む行為』によって自分は本当に休めるのか」という不安に打ち勝つということである。普通に労働していたら、「自分が満足出来るまで休暇を取ります」なんて休日の取り方はまず出来ない。仮に2週間丸々休日を取ったとして、それで自分は休めるのか?その2週間で確実に休み、回復することが出来るのか?仮に満足行かなかったとしても、カラオケのように延長しまーすとはいかない。元の生活に戻らねばならないのである。その時……その時の絶望に、耐えられるだろうか?こんなにいっぱいいっぱい休みを取って、「何もしない」を実践して、回復に専念して、それなのにまだ満足していない!自分は休みに満足していない!うわあああ!!!
……となってしまったらもうアウトだと思う。そうだ病院行こう。
それで、この記事にある南国バカンスにしろ、ビジネスホテルで「外こもり」にしろ、「休みの日に休めなくて辛い」を通り越して「休んだところで休めるか分からないしそんな絶望するくらいならいっそ休日なんて無ければいい、休日が恐ろしい」となっている人間には、大金払ってリスクを取りつつ更に恐怖体験である「休みを取る」なんてのは二重三重の艱難辛苦なわけだ。 休日そのものが無ければ当然「休みの日に休み足りない」という事象も発生しなくなる。しかし休日が無ければ人間いつか倒れてしまう。でも休日は……怖い。いったいどうすればいいんだ!(混乱)
頑張って 頑張らないで 頑張らないことを頑張って休もう
やはりまず必要なのは、「休めなくてもいいから形だけでも休んでみること」。休めなくたっていい。辛くても最初のうちは仕方がない。取り敢えず1日でも2日でも、「休むぞ!!!ウオオ!!!」と自分を奮い立たせてみる。休む練習をする。それで休めなくても、別によしとする。「休むために休んだのに休めなかった……」と落ち込むかもしれないが、それでもよしとする。そうやって休む練習を繰り返し繰り返し……待て待て休む練習ってなんだ?自分は一体何をやっているのだ?……などと思っても、それ以上は考えないようにする。言うなればこれらは「勉強に取り組む前に勉強の方法についての本を読んでいる状態」、あるいは「勉強の方法についての本を活かすためのネットコラムを読んでいる状態」で、とにかくめちゃくちゃ回りくどいのだが、休めない人間にはそれくらい必要なのだろうなあ。
それと話をデカくするようだが、「自分を大切にしようとする意識があるか無いか(多いか少ないか)」も、休む練習を易くするか難くするかを左右しているのだな。休めない人間は自己評価が低く、心のどこかで「自分に休む価値などない」と思っている。休むのに価値は必要ない。休むのに価値が必要なら、死ぬことにだって価値が必要だろう。でも死ぬときゃみんな死にますから。価値のない人間もいつか必ず死にますから。ワッハッハ。
結局、金
そうやって休むためには休んでいる間の生活費が必要になるわけだから、結局労働は必要なわけで、生活費を貯め休日に休日する練習を積んで休日に休日出来るようになるのが先か、病院の天井を眺めることになるのが先かという地獄のレースが、今まさに、開幕しようとしている。怖。