珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

手のかからないものたちについての覚書|疲労が溜まると抽象的になりがち

時間はいつから流れているの

時間とはよく出来たものである。私がわざわざ手を加えて流してやらなくても、勝手に流れていくのだから。いつも気づいたら夜になっていて、夜が流れて朝に替わり、朝が流れて昼に替わり、昼が流れてまた夜に替わる。私が手を加えなくても。トイレの水もレバーさえ捻れば勝手に流れるし、そうめん流しも茹でた麺を高い位置に置いてさえやれば勝手に流れていくのだが、時間にはそうやってレバーを捻ったり麺を置くような手間すら必要ないのだ。すげー。どんどん流れていく。

手のかからないいい子たちです

忙しない現代において、手のかからないものは良いものだ。前述のとおり時間は手を加えずとも流れていくし、空間だってそうだ。我々がわざわざ手を加えなくともそこにある。宇宙……は空間と実質同義だが、まあ宇宙も別枠で手がかからないということにしておこう。存在や概念も本来は手がかからない、我々には手の加えようのないものだと思うのだが、紀元前、哲学者にとっつかまって以降、あれこれこねくり回されている可哀想な奴らである。神様は……一方では手のかけようがこれっぽっちもなかったり、一方ではめちゃくちゃ手がかかったりするその二面性において、結果的にめちゃくちゃ手がかかっているのである。創造主を創造したのは誰であるか?これ以上はいけない。

よく分からない物事に思いを馳せる

手のかかるものは疲れる。具体的なものも疲れる。現実なんてまさに「手のかかる、具体的なものの集まり」なのだから、くたびれ果てるのも道理である。それらと格闘することに疲れたら、手のかからない抽象的なものについて考えてみると、なんとなく落ち着く。時間。空間。それ。あれ。これ。「抽象的なもの」という抽象的なもの。哲学は、私のようなアホには手のかけようのない品なので、却って安心しながら読んでいる。何回読んでも理解出来ないということは、理解出来るまで何回でも読めることなのでおトク。時間や空間の始まりや繋ぎ目や終わりに思いを馳せる。時間や空間の始まりや繋ぎ目や終わりってなんだ?分かりません。それが手のかからない抽象的なものだということ以外分かりません。

「いい子」

ところで現代社会における「手のかからない子」に付与されるあの物悲しいイメージは一体何なのだろう。「手のかからない子」はすなわち「いい子」で、「いい子」とはよいものではなかったのか。「手のかからない子」と言われた時、キビキビシャキシャキ動けて、自分の面倒はきちんと自分で見て、親や先生の言うことに「ハイ!」と大きな声で返事を出来るハツラツとした将来有望な子供、という想像を出来る人が一体何人いるだろう。控えめで、物静かで、大人の言うことは何でも聞いて、揉め事とは無縁の、どこか抑圧されたような子供ばかり想像してしまう。「手のかからない子」のイメージは昔からそうだったのだろうか。それとも、現代になってから?むしろ前者はエリート層における「手のかからない子」、後者は一般層における「手のかからない子」という感じだろうか。子供とはてんで無縁なもので、わからん。

頭と体の輪郭が崩れていく

近頃自分のブログ記事の内容まで抽象的になって来ているのを薄々感じている。低気圧の影響をモロに食らうタイプのためか、とにかく頭が回らないので、抽象的なことしか言えなくなっている。頭も回らないし体も回らない。以前はどんなに忙しくても必死に動き回って「お゛わ゛り゛ま゛し゛た゛」と一応言えていたのだが、なんか気づいたら退勤時間でアレェ!?となることが増えてきている。頭が回らなくてブログ記事が抽象的になるくらいならまだしも、体が回らなくて仕事が終わらないのは相当マズい。私の体も、勝手に流れていってくれないかな。手のかからない抽象的な奴らみたいに。

 

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