珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

未だ生まれぬ書評についての覚書|感情で読むか、理性で読むか

書評記事が書けねえ件について

熱心に本を読むようになってから、結構な頻度でヨッシャ書評記事を書くぞと何度も何度も記事作成ページを開くのだけれど……書けぬ。これがとんと書けぬ。本を読んで、感動して、この心に渦巻く感動を文章で表現しようとして……書けぬ。手始めに何から書けばいいのかさっぱり分からぬ。あらすじ?全体のまとめ?イヤイヤ私は「感動」が書きたいのだ。「要約」を書きたいのではなく。しかし読み手に理解して貰うには最低限の内容説明が必要不可欠だ。そのためにもう一度本を手に取り、大まかな内容を記すためにパラパラとページを捲って、第一章はこうで、第二章は……ええいだから私は「感動」が書きたいのだ!「要約」を書きたいわけではないのだ!自由に書けないのなら書評なんてやめてやる!ウワーッ!

……となり、毎回挫折するのである。

感想があまりにも「感情」なので上手く説明できないんですよ

この傾向を冷静に分析するに、自分は感情で本を読んでいるのだと思う。よい本を読んだ直後に、他人から「どういう本だった?」と聞かれても、うまく説明できない。よかった。どこがどうって……よかったんだよ。とにかく。とにかくよくて、グワーッと心にきて、よさみが。そうよさみがすごい。よさみがすごい本だったんだよ。その本が心に刺されば刺さるほど、「本当に読んだのか?」と怪しまれてもおかしくないレベルで語彙力が低下してしまい、それ故に一層他人に伝えられなくなる。人間、よいモノに出くわしたら人に伝えて回りたくなる習性があるものだ。しかし語彙力の低下によりそれも叶わず、自分の中で発散できない感動がぽんぽこ膨れ上がり、感情的になればなるだけ、更に語彙力も低下する。やがて、他人に伝えるのが面倒になる。私がよかったと言ったらよかったんだ。詳しく知りたけりゃ私の心を読んでみな。つまるところ、感情で本を読み、それを内側に溜め込んでいくタイプ。一方で時間が経つにつれて荒ぶっていた心が若干静けさを取り戻し、感動をきちんとした言葉で他人に伝えたくて堪らなくなる人は、感情で本を読み、それを外側に発散していくタイプとでも呼ぼうか。

読書と同時進行で分析まで出来る人はすごい

 感情で本を読む人間がいるのなら、理性で本を読む人間もいるだろう。卒論発表会で、手元に配られたレジュメに書き込みをしながら他人の発表をふんふんと黙って聞いているようなイメージだ。すげー!とかほえー!とかわかるー!って気持ちが表に出てくる前に、「はて、以前読んだ本と内容が違うぞ」「何故作者はこのような考えに至ったのか」「この記述は前半のあの部分と矛盾するのではないか?」などと黙々考えながら読むタイプ。心に響くかどうかも大事だが、理に適っているかどうかの方が大事。一般的に見て、(多分)かしこい。

動的なエネルギーと静的なエネルギー

感情で本を読むと、動的なエネルギーが得られる。本に習って自分もいっちょやってみるかとか、本を読んでいたら何かをしなければならない気がしたとか、今なら何かやれそうな気がするとか。手足を動かすことに繋がっている。理性で本を読むと、静的なエネルギーが得られる。なるほど世の中こういうことがあるのだなとか、なるほどこういう場面ではこうするべきなのだなとか、来たる事象に備える静かな知恵。知見。智慧。いつか来る出来事に対して、自分の中に選択肢を増やしておくこと。知識とは選択肢。

私はもう少し理性で読むべきです

私の書き方が悪いせいで、感情で読むタイプはなんだか頭がとんでもなく悪そうに見えてくるし、理性で読むタイプは逆にめちゃめちゃ賢そうに見える。そのイメージはあながち間違いでもないかもしれないが、どちらが良いとか悪いとかではなく、ただ自分の性分にあった読書法を選べば良いと思う。自己啓発を目指すなら、両方のバランスが必要だろう。「ウオオ!すごい!よき!元気出た!モチベ上がる!」という感情的な刺激と、「なるほどですね、勉強になりました」という理性的な刺激。どちらに偏っていてもいい成長は出来ないのではなかろうか。

読書は娯楽であること。読書は教養であること。両方忘れずにいたいものである。

 

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