珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

捨てたものたちについての覚書|少年よ、大地を肥やせ

無趣味な貧乏根暗フリーター、いつ笑えばいいのか問題

ねえねえお母さん、どうしてあの人は笑っているの。それはね、今週末に楽しみにしていたジャニーズのコンサートが控えているからよ。じゃあそっちの人は。それはね、お給料とボーナスがたくさん入ったからよ。じゃあこっちの人は。それはね、仕事が終わったら高校時代の親友と飲みに行く約束があるからよ。ねえねえお母さん、どうしてあの限界フリーターのおばお姉さんは笑っていないの。――それはね、趣味もお金も友人も持ってないからよ。

逃げるが負け

自虐して趣味とお金と友人が手に入るのならいくらでも自虐するが、かといって減るわけでもないのでいくらでも自虐する。無いものは減りようがない。歳を追うごとに自分は持たざる者という自覚が酷くなっていく。いや持たざる者、というと少し違うかもしれない。昔の自分は趣味と友人は持っていた。お金も、まあそこそこあった。持ち続けようと思えば持ち続けられたものたちばかりだ。趣味とお金と友人が私から逃げたのではない。私が、趣味とお金と友人から逃げたのだ。これはまごう事なき事実であり、今更真剣に嘆くつもりもないけれど、ンマー嘆かわしいことよと他人事のように思う。趣味を手放したり、お金をドブに捨てたり、ある日突然人間関係を切ってしまったり。それらの行為によってヤケクソの開放感を得られるのはほんの一瞬で、数日も経たないうちに虚しさがやってくるのだけれど、あまりに何度も繰り返しているものだから、その虚無感にもそのうち慣れてしまうのだ。「捨て癖」がついてしまった。捨てすぎてこれ以上何も捨てられなくなった。何も持っていない状態で「今年は捨てない」と決意するなんて、お腹いっぱいの状態でダイエットを決意するようなものだけれど、一応決意しておく。

何事も土壌が肝心

 嬉しさや楽しさは、まっさらの土からいきなり生えてはこない。嬉しくなるようなこと、楽しくなるようなことという木が生えて、そこから収穫出来るものだ。そしてそういった木を生やすためには肥えた土が必要なのであって、趣味やお金や友人は、まさにその土壌なのである。手塩にかけた肥沃な土壌を捨て、わざわざカラカラの土地で1から始めるようなことを、何度も何度も繰り返してきた。なるほどね。そりゃあ嬉しさも無いし、楽しさも無いわけだ。他人様が収穫した嬉しさや楽しさという果実のおこぼれをいつも期待している。思いがけない臨時収入とか、普段さほど関わりのない人からの「よかったら一緒にどう?」とか、そういうのをいつも待ってばかり。確かにそれはそれで、格別に喜ばしいものではあるけれどね。

これでも少しずつ前を見ている

ここ最近こんなネガティブなことばかり書いているけれど、気持ちが沈んでいるわけではない。それどころかむしろ上昇気味で、久しぶりに雑誌を買ったり、ネットで家具を買ったり、服を買ったり、アクセサリーを買ったりしている。来月辺りには、昔好きだったあるものの道具を一式買ってみるつもり。ブログを再開してからは、過去を見つめ直すためにキーボードを叩いている。

だってこのままでは本当に、労働と納税だけで人生が終わってしまう気がするから。いや冗談抜きで。

 

冗談抜きで。

 

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