珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

回らぬ頭で書いた回る頭についての覚書|まわってまわってまわってまわる

なんてこった!頭がいい!

人間は、吐き出さなければやってられない生き物である。嬉しいこと楽しいこと、驚いたこと呆れたこと、辛いこと苦しいこと。頭に溜まったものも、心に溜まったものも、時には胃や腹に溜まったものも、吐き出さなければやってられないのである。バイトの休憩中、尋常じゃない頭痛に襲われた私は、思わずメモ帳アプリを開き「ぐええ頭痛い」と打ち込んだ。吐き出さなければやってられないからである。ところがその悲痛な叫びは、予測変換のいたずらにより「ぐええ頭いい」に置き換えられた。頭いいなら、ええやん。何をこんなに苦しんどるんやろな。いやいや実際世の中には「一般人には理解されない頭の良さ」で苦しんでいる人もいるのだ。こういう叫びだってあるだろう。私には一生、縁がないけどね。

答えは未だ無い(これから先も)

私は頭の回転がすこぶる遅い。回転してない疑惑さえある。回転が求められる場面において、それを回そうとすればするほど余計な力が入り、回すべきものに対して垂直に力を加えてしまうが故に、回らないのである。人に質問をされると、質問の答えを探すために思考が働くのではなく、相手から投げかけられた質問そのものがぐるぐるぐるぐると無限に頭の中を巡るばかりで、先へ進まない。「どうして?」と聞かれたら、「どうして?」という相手の言葉が延々と反芻される。どうして?どうして?どうして?――えっと、ドウシテって、何だっけ。

無いものはどこを探しても無い(これから先も)

 こうした経験を何年も何年もやってくれば、こうなる原因も自ずと分かってくる。端的に言えば何事に対しても身構えすぎなのである。頭を回すために必要なのは力むことではなく、むしろ力を抜くこと。古事記にもそう書いてある。取って食われるわけでもあるまいし。質問の相手が誰だろうと、質問の内容が何だろうと、落ち着いて、心穏やかに……いや待てよ。力を抜いて、リラックスして、それでフッとうまい考えが浮かんでくるなんてこと、ある?力を抜いて望めば、人と上手にお喋り出来たり画期的なアイデアが思い浮かんでくるなんてこと、ある?心が落ち着いていれば、気の利いた台詞が出てくる?平静を維持していれば、ウィットに富んだ発言が出来る?そんなことって、ある?いや、無い!手品でもない限り、何も入ってない空っぽの壺から何かを取り出せはしないのだ。ワハハ!結局「やり方」の問題ではなく、「素質」の問題じゃないか!私は頭が悪い!ワハハ!

面白い人間が生き残る

「頭がいい」という言葉が、「学問の成績が優秀である」と「頭の回転が早い」という2つの意味を持つようになって久しい。子供の頃はとにかく「学問の成績が優秀である」ことばかりを求められ、いざ大人になると「頭の回転が早い」ことばかりを求められる。それならさあ、学校の授業に「話術」とか「頓智」とか「落語」とか入れて欲しかったよなあ。成績優秀でかつ頭の回転が早いなら鬼に金棒だが、ぶっちゃけ勉強が出来なくても頭の回転が早ければ勝ち上がっていける。世の中は、どんどんそうなってきている。「勉強が出来るだけでは世の中渡っていけませんよ」ってことを、学校で教えて欲しかったよなあ。「現実」という科目も必要だろう。

まあこれらも所詮、コミュニケーション弱者の遠吠えよ。

 

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