珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

「楽しかった」という猛毒についての覚書|憂鬱の海に棲む深海生物

とあるブログに目を通した感想

「珈琲三杯」という底辺ブログの記事を読んでいた。記事の大半がネガティブで、ペシミスティックで、自分語りばかりしている。詩的なことを書こうとして、その度に空虚な現実逃避に終着している。執着していると言ってもよかろう。真っ白な手帳を幾度読み返したとて得るものは無いのと同じように、真っ白な人生を振り返っては何もないところから何かを得ようとしてスベっている。はーつっかえ。みんな読者登録してね!

電球交換しといてって言ったでしょ

 ゴキゲンな記事を書きたいのは山々なのだが、ここ最近ずっと、電球が切れかけた部屋のような気分が続く。切れた部屋ではない。基本的には真っ暗なのだが、時々思い出したようにチカチカと光るのが却って鬱陶しい。真っ暗闇に住む人間にほんの一瞬だけ希望の光を見せる、これほど残酷な仕打ちが有るだろうか。憂鬱の沼を泳いでいる人間を、一瞬だけ真水のプールに引き上げて、次の瞬間にはまた憂鬱の沼に蹴落すような鬼畜の所業。「あれ?もしかして自分このまま持ち直せるんじゃね?」からの「ア゛!゛!゛!゛」である。中途半端なところまで上げられて途中で落とされるくらいなら、最初から最後まで絶望の床を這いずり回っていたほうがまだ救いがあるってもんだ。あらっ嫌だわ奥さんこのブロガーまた自分語りに没入してましてよ。はーつっかえですわ。

明るい記事を書こうとして 編集画面覗き込んだ

あまりにも中身のない記事が続くもんだから、何かこう、含蓄のあるものを書こうとしてキーボードを叩いている次第である。近頃またキェルケゴール死に至る病にn回目の挑戦状を叩きつけているところなので、そこから考えたことを気が向いた時に書いていこうと思う。重い気分の時には重い本を読むに限る。下手に浮上しようとすると却って怪我をするのは経験から証明済みだ。今は憂鬱の底とマブダチをしている。以下、そんな憂鬱の底からお送りしよう。

仄暗い憂鬱の底から

ひとたび憂鬱の最深部に着底してしまった人間は、1度や2度楽しいことが起こったくらいでは持ち直せなくなってしまう。ところが厄介なことに、その1度や2度の楽しいことによって、気を持ち直すまではいかないものの「少なくとも辛い時間ではなかった」という感覚を知ってしまう。「辛くない時間」の存在を知ってしまうのである。「辛くない時間」を知ってしまった憂鬱者はどうなるか?「辛くない時間」が終わった後にやってくる「辛い時間」のターンが果たしていつまで続くのか、次の「辛くない時間」はいつやってくるのか、意識的にしろ無意識的にしろ、問うてしまうことだろう。おかわり。しかしその問いに答えが出ることは滅多に無い。憂鬱者になるような人間には、基本的に「辛くない時間」そのものが稀少だからである。いつやってくるかも分からない「辛くない時間」を待ち望んだり、或いはいつ過ぎ去るかも分からない「辛い時間」を耐え忍んでいるうちに、また憂鬱の最深部に着底してしまう。しかも、「辛くない時間」を知ってしまったが故に、落下ダメージは前回より大きい。2D6どうぞ。

日常の楽しみや喜びが毒にしかならないということ

普通に労働して生活していれば、ありとあらゆる楽しいこと嬉しいこと愉快なこと面白いことを避けることは実質不可能だ。ある日突然給与アップを宣告されるかもしれないし、ある日突然職場に美味しい差し入れが届くかもしれないし、ある日突然誰かとの雑談で2時間盛り上がるかもしれないし、ある日突然人気Youtuberにハマるかもしれない。悲しいことや辛いことがどこから襲って来るか分からないように、楽しいことや嬉しいこともどこから襲って来るか分からないのである。そうして「辛くない時間」を知れば知るほど、相対的に「辛い時間」の辛さが増してしまう。ある意味で贅沢な悩みかもしれない。「辛くない時間」がやってくる環境にいるだけ、恵まれているのかもしれない。

何ヶ月も前の「辛くない時間」を時折脳裏に思い起こしては、あたりめのように噛みしゃぶっている。

 

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