珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

『私』という初期アバターについての覚書|私としての私と私ではない私

『私』は満期まで解約出来ない

キェルケゴール死に至る病は、私にとって愛読書というよりむしろ憎読書である。蔵書の中から何かを読もうと思った時には、大抵『死に至る病』を手に取る。頭がフットーしそうになりながらもなんとか行を追って、頁を繰って、今日はここで満足と思った時にはげっそりとやつれている。憎い。難解な文章が憎いし私の頭の悪さも憎い。これを憎読書と呼ばずなんと呼ぼうか。それはさておき、『死に至る病』には、「絶望して自己自身であろうと欲する」「絶望して自己自身であろうと欲しない」というフレーズが頻出する。あーハイハイ自己自身であろうと欲したり欲しなかったりするアレね。ハイハイ。週3くらいで出るアレね。ハイハイ。「私の理想とする私でありたい」と思う場面と、「私ではない他の私になりたい」と思う場面は確かにある。私はどちらかといえば前者の比重の方が大きいが、皆様はいかがだろうか。私は『私』を維持したままで橋本環奈になりたいと考えるか、私は『私』というものを綺麗さっぱり放棄して橋本環奈になりたいと考えるか。転生したら橋本環奈だった件。てんはし。

私は思いのほか私の良いところを知っていたということ

学生時代はよく「私もXXちゃんに生まれたかったなあ」などと思っていたものだ。可愛くて、勉強が出来て、運動も出来て、性格もよくて、キャラも面白いクラスの人気者。大人になってからというもの、そう考えることはめっきり減った。というか無くなった。私は私のことが嫌いかと聞かれたら意外なことに案外そうでもない。私は私のセンスのことをめっぽう気に入っているし、難解な本を進んで読みたがるところも気に入っている。守銭奴な部分も嫌いではない。細かい所によく気づく点も我ながら良いと思っているし、心配性故もあるが物事の先の先を見据えて思考をフル回転させる癖も悪くはないと思っている。まあ、人生の先の先までは見えなかったわけだけども。あれ、もしかすると私って結構私のことが好きなのかもしれない。しかしながら、私が私のことをどれだけ愛していようとも、華やかで前向きな人生が送れるわけではないのだな。一見自信に満ち溢れたナルシストの方が却って不安を抱きやすいように。万が一、「自分の好きな自分」を否定されるようなことがあるとすれば、それは一体どれほどの恐怖であろうか。壊れやすい完全よりも、壊れにくい不完全の方が都合が良い場合もある。

どちらか片方を愛せればいい

私は私の人生に嫌気が差しているが、私そのものに嫌気が差しているわけではない、という点に置いてはまだワンチャン救いがあるのかもしれない。もしも私が今あるもので容易にカバーしきれない重大なコンプレックスを外側ないし内側に抱えていたとしたら、人生更にどん底であったことだろう。とはいえ身体のことだけ挙げても額がめちゃくちゃ広くて子供の頃から常にハゲの一歩手前だし、最近は頭頂部も薄くなってきて一歩手前どころかハゲに片足を突っ込んでいるし、顔はデカいし、毛深いし、手荒れは酷いし、足は臭いし、もうめちゃくちゃだけど、それでも私そのものにはさほど嫌気が差さないのはなんとも不思議なものである。ただし、私の近くにいる人から嫌気を差されている可能性は大いにある。足が臭いのは心の底から申し訳ないけど今は許して。今度足指用の消臭クリーム買うから。

 哲学の次は宗教を学ぶべきかもしれない

真なるキリスト者を志したキェルケゴールであるからして、『死に至る病』はそれはもうキリスト色の強い著書となっている。神の前における罪の概念、まあ想像くらいは出来るとはいえ、その道を齧った経験が無ければ誠の意味で共感することは難しいだろう。神の前における罪よりも人の前における恥を重きとするような場所で生まれ育ったのだから。罪の概念と恥の概念は比較論的によく述べられるものだ。最近かいた恥ならいくらでも挙げられるが、最近犯した罪はと問われればなかなか言葉に詰まる。私が最近犯した最も重い罪は……ウーン、リセッシュの容器にファブリーズを詰め替えたことかなあ。

 

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