珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

過思考と過認識についての覚書|人類が背負う不治の病

考える人

アーッ何も考えたくない。自分を不快にさせる何かについて考えたくないとかそういうことではなく、ただただ思考を回したくない。そんな時は結構ある。筋金入りの悲観主義者であるからして、思考を回せば出るわ出るわ過去現在未来の淀み。皆様は子供の頃に「何も考えない」ごっこをしたことはないだろうか。ルールは簡単、ただいっせーので皆同時に「何も考えない」ようにすれば良いのである。ところがこの遊び、意図的に頭を真っ白に出来るのはせいぜい最初の2、3秒程度であって、その後は延々「何も考えない」ということを考えている。何も考えない。何も考えない。私は何も考えないし考えてない。何も考えてないったら!わー!わー!「何も考えない」でいることが人として実に難しい点からも分かる通り、考える力というものは非常に強大だ。我々の臓器が我々の命令なしで働くのと同様に、我々の純粋な認識を絶え間なく阻害してくる。何かを見て「あっ何かだ」と考えた時点で純粋な認識は我々から遥か遠い地点まで逃げおおせている。まして「あっ丸い」とか「あっ赤い」とか考えてしまった時点で純粋な認識は既に地球の裏側にいるのである。

マゾヒズムってそういうこと

余計なことばかり考えてしまう人間に適切な処方箋は何か。別の苦痛である。これは私の無根拠な持論なのだが、苦痛を快楽で打ち消そうとするならば、快楽を苦痛の倍量を一定期間絶えず与えられることが必要だが、別の苦痛を用意してやればそれはごく少量で済む。苦痛を打ち消すのに別の苦痛はコスパが良いのだ。冒頭に戻るが、余計なことを考えたくないのであれば風邪か何か引いてしまえばいい。風邪を引いて、「ああ頭が痛いなあ」「ああ鼻水が止まらないなあ」「ああ咳が出るなあ」と考えておけば、身体的な苦痛と相まって余計な思考を回す余力が無くなるだろう。虫歯が痛む時についつい頬の内側を噛んでしまうのと同じようなものだ。頬を噛む痛みが虫歯の痛みを誤魔化してくれる。私は先日、敢えて睡眠不足で出勤してみた。眠くて眠くてもう眠いことしか考えられない。仕事中にイライラするリソースすら無い。睡魔に襲われるのはひたすら辛かったが、ストレスの量は格段に少なかった。痛みを痛みで誤魔化さなければやってられないのである。

お父さん、お父さん!認識がぼくをつかんでくるよ!

考えすぎて疲れるというのはそういったことが日常的に無い人間からすれば実に馬鹿馬鹿しい限りであろうが、当人からすればかなり深刻な問題だ。この考えすぎて疲れる問題、更に重症化すると「認識しすぎて疲れる」にまで発展する。私は1ヶ月程前にこの認識しすぎて疲れる症候群に襲われて死にかけていた。どのような症状かというと、ただ見慣れた道を歩いているだけであらゆるモノからあらゆる認識が勝手に頭に入り込んできて脳内を荒らし回るのだ。もっと具体的に言おう。例えばいつもの道を歩いていて、いつものポストがあった。それは何ら変哲もないただのポストであり、ポスト以上でも以下でもない。にも関わらず、「赤い」「四角い」「投函」「手紙」「はがき」「郵便局」といった当たり前の認識が次から次へとなだれ込んで、頭の中が忙しくなる。私の頭の中は「ポストですよ!!!赤い!!!真っ赤!!!形は四角で足がある!!!足はちょっと細いよ!!!口が2つありますね!!!手紙を入れたりはがきを入れたりします!!!切手が必要!!!郵便局の人が回収に来ます!!!」という当たり前の認識でいっぱいになる。分かった。ポストが赤くて四角いのは分かったから落ち着いて欲しい。もう私の頭の中は満杯なのだ。これがポストのみならず電柱を見ても植え込みを見ても自動販売機を見ても自転車を見ても通行人を見ても起こるのである。電柱は長い、植え込みは植物、自動販売機は飲み物を売る、自転車はトロトロと進んでいる、通行人は黒い服。ふええもう認識が入らないよお。この現象をそれっぽく過認識とでも呼ぼうか。ここまで来ると歩いているだけで気が狂いそうになる。口から認識を吐き出してしまいたい。オエッ。

思考と認識は現代人にとって猛毒である

これら「考えすぎ症候群(過思考)」「認識しすぎ症候群(過認識)」、要は内側からオーバーヒートしているか、外側からオーバーヒートしているかの違いしかない。どちらも頭の中が要らないモノでいっぱいになっているわけだが、前者は要らないモノが自分の内から無限に湧き出してくる現象で、後者は自分の外から無限に入ってくる現象。身の回りを物質をいくら断捨離したとて、思考と認識の断捨離が出来なければ生きやすさなんて永久にやってこない。生きやすい人とは、恐らく思考と認識の断捨離が上手い人のことを指すのだろう。思考と認識は毒だ。モノと情報が氾濫している現代においては更に猛毒だ。しかし私は「思索のための思索」などという大それた文言を副題に掲げ、今日もいらん思考といらん認識に振り回されながら文章をひり出している。猛毒に散々苦しみながら労働をこなしたわけだから、帰宅後は解毒に勤しむべきなのに、自宅に帰るなりカップになみなみと新たな猛毒を注ぎ飲み干しながらキーボードを叩く。当ブログの記事は日々の追い猛毒によって作られています。 あたしって、ほんとマゾ。

 

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