内からの救いの手についての覚書|心のゆうえんちで僕と握手
自己否定の塊も絞りに絞ればなんか出て来る
自己を過小評価している人間、大抵「過小評価」の自覚がある説。つまり、外界(他人)に向かっては常に「ご存知のとおり自分は無能産廃ゴミカスクソ人間です」と自己表明をしておき、内界(自分)に向かっても常に「ご存知のとおり自分は無能産廃ゴミカスクソ人間です」と自己表明しつつも、「まあ実を言うと、こういうことが出来たりするんだけどね……テへ」「まあ実を言うと、たまに褒められたりするんだけどね……ウフ」という自己弁護を完全に殺しきれないでいる。毎日毎日自己否定にまみれながらも、「日頃言ってるほど自分は無能産廃ゴミカスクソ人間ではない」という意識がミジンコくらいはある。それらは自尊心を守る最後の砦である。それが強く働きすぎると外界に向かっても「まあ実を言うと」のくだりをやり始めてしまい、いわゆる「構ってちゃん」になるのだけれど。本当は誰かに「そんなことないよ」と言って欲しいけど、誰かに言わせるのは忍びないしみっともないし嫌われるのは怖いから、心の中の防音室でひっそりと口にするのだ。「おい自分、そんなことないよ」と。にしたって白黒さん、随分詳しいですね。ええ、だって自分のことですからね。
今生きてるのがその証拠
これは厭味ではない。そういう意識があるのは当たり前である。真の絶望者を自負する人間の心の中にそういう意識があったとしても、それは何ら恥ずべきことではない。人に備わっている治癒能力が立派に作用している証拠である。失望の谷に迷い込んで、自暴自棄になって、外からの救いの手を何度も拒絶して、終いには外からの救いの手が差し伸べられなくなったとしても、内からの救いの手だけは最後の最後まで救済を諦めないからだ。救いなんかこれっぽっちも必要ない、最早死ぬこと以外何も欲しくないという時でさえも、内からの救いの手は我々の心にしつこく迫ってくる。「お前はこういうことが出来たりするじゃないか」「お前はたまに褒められたりするじゃないか」と言って、我々の心を支えようとする。時には甘いものや辛いものを大量に食わせようとしたり、他人やモノに当たるようそそのかしたり、煙草やアルコールやいけないお薬を勧めてきたりと困ったやり方で救済しようとするけれど、それらを拒絶出来ないのは、内からの救いの手がそれだけ我々を生かしたくて生かしたくて仕方がないからなのだろう。内からの救いの手が差し伸べられなくなった時がまさに生命が終わる瞬間であり、生命が終わる瞬間に初めて内からの救いの手はその救助活動を止めるのである。
救いの手は私の好物を完璧に把握しているので逆らえないんだよなあ
内からの救いの手などと大仰な言い方をしてしまったが、なんてことはない。何かで失敗してしまったときに「でも上手くやったこともあるし」「でも昨日は別件で褒められたから」と過去の成功を必死に思い出して自分を慰めるのは、内からの救いの手に上手く掴まっている証拠である。「自分よりアイツの方がヤバい失敗してる」と他人の失敗を必死に思い出してどうにか持ち直そうとするのも、まあある意味で内からの救いの手だろう。今すぐ逃げ出して布団被って寝たい時に「あと2時間我慢すれば帰れる」と自分に向かって必死に言い聞かせている時は、内からの救いの手が「あと2時間我慢すればお前は帰れるんやで」と言っているのである。5分後には後悔すると分かっていながらスナック菓子をヤケ食いしている時、内からの救いの手は「ほらスナック菓子ウマいやろ、いっぱい食って元気だしな」と言っているのである。お前のせいでこっちはブクブク太っているというのに悠長なやつだな。ありがとよ。
話は全く変わるのだけれど
近頃コンビニで売っているカップ麺めっちゃ高くないですか?