負け大人の遠吠えについての覚書|こんな大人に誰がした
汝、隣人を滅せよ
プロフィール欄に「嫌いなもの:人間」と書くことが許されるのは果たして何歳までだろう。いやむしろ何歳から許されるのだろう。嫌いなものはあるか尋ねられて「人間」と返す幼稚園児。有象無象としての人間、知った顔以外みな同じに見える人間、人間の敵である人間、足の生えた電柱である人間、アダムとイヴのみぞおちをぶん殴ってでも知恵の実を吐かせるべきだったと私に言わしめるところの、あの人間。人を救うのは人しかいないというけれど、そもそも人を窮地に陥らせているのも大抵が人である。人の敵は人であるからして、客は店員の敵だし、店員もまた客の敵である。Twitterやまとめサイトでは連日「クソ客」「クソ店員」の話題に事欠かない。客と店員が匿名でお互いを罵倒し合う素敵な世の中。そして嘆かわしいことに、休日の店員とはどこかの客のことだし、平日の客とはどこかの店員のことである。私の敵は私で、私の敵もまた私。人類に平和が訪れんことを。完。
Let's go to コンビニエンスストア
街中に踏み込めば、多くの人が誰かと共に歩いている。私はひとりが好きなので、どこかへ行くのに誰かを伴うことは滅多に無い。元々活発なタイプでもないし、誰かとつるむなら人数は極力少ない方がいい、別に誰かがいてもいいが、欲を言えば自分ひとりの方がいい。ここ数年接客業で精神をやられてからはもう見る人間見る人間が敵に思えてくるし、自分の隣に金輪際人間など置くものか……仲間、同僚、友達、恋人……そんなものクソ喰らえだ!ひとりで気楽に歩きながら、音楽を聴いて、コンビニに寄る。ひとり最高!ひとりで音楽を聴きながらぷらぷら歩いてふらっとコンビニに寄ること自体は何も悪いことではない。悪いのは、私が10年後も20年後も30年後も下手したらそれ以降も、毎日毎日ひとりで音楽を聴きながらぷらぷら歩いてふらっとコンビニに寄っている可能性があるということである。
人が憎いとかくだらんこと言ってる間に高校の同級生が結婚していく
ある程度歳を取ってくると、単純な自分の性格や趣向の上に、年齢に見合った人生経験や財産(物質・非物質問わず)が有るかという、社会の成員としての役割をきちんと果たしているかという問いが常にのしかかってくる。私がこうやってひとりで過ごしているのは完全なる私の意思で、そこに何の不便も感じていないけれど、この歳になってまともに付き合いのある友人も恋人もいないということに、「社会の成員としての欠陥」を嫌でも考えさせられる。そういうことを気にしてしまう点でも、私は根暗としてアマチュアである。先日の記事参照。若さはあらゆる特権を孕むものだが、ひとりで過ごすことに何の気兼ねも必要ないという点は本当に大きいと思う。街を歩けば自分と同い年くらいの仲良し集団、自分と同い年くらいのカップル、自分と同い年くらいの子連れ夫婦、自分には決して届かない人間の形。決して友人を作ってバカ騒ぎしたいわけでもなし、彼氏が欲しいわけでもなし、家庭を持ちたいわけでもなし。ひとりで充分満たされているはずなのに。ところが私がちっぽけな充足の上で足踏みをしている間に、周りの人間はどんどん社会の成員としての自分を形成している。なんてこった。
見た目は大人、頭脳は子供
この歳になっても自分のことを大人と思えないし、現実に子供っぽい性分から卒業出来ないのは、人付き合いの不足に原因の一部があるのかもしれない。自分の面倒を見るのは自分、自分の先生は自分、自分の監督は自分、自分のプロデューサーは自分、自分の友人は自分、自分の恋人は自分(?)、付き合う相手は全部自分、最終的にはいつも自分に甘いところの自分で、どうして成長出来ようか。私の成長はいつ止まってしまったのだろう。今の私はただ大人ぶって自分と付き合っているだけの子供だ。ひとりで過ごすことが大人だと思っている小さな子供だ。みんなは子供みたいに他人とバカ騒ぎしながら、大人になっていくのにね。