珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

「帰りたい」入門編についての覚書|死んだ後にも「死にたい」とか思ってそう

あんなに一緒だったのに

この世には2種類の「帰りたい」がある。帰った後に楽しみが待っている「帰りたい」と、帰った後に楽しみが待っていない「帰りたい」である。楽しい方へ駆け寄ろうとすることと、辛い方から逃げ出そうとすることとの間には、夕飯に熊を食べることと、自分が熊の夕飯になることくらいの違いがある。かの有名な全日本もう帰りたい協会もいずれ、全日本やりたいことがあるのでもう帰りたい協会と全日本仕事が辛すぎるのでもう帰りたい協会に分裂し、理念や信条の致命的な不一致から激しい対立を余儀なくされ、第一次もう帰り大戦が始まるのも時間の問題だろう。おうちに帰りたい気持ちはどちらも同じはず、けれども両者の間には決して埋まることのない溝がある。あんなに一緒だったのに、夕暮れはもう違う色。せめてこの月明かりの下で、静かな残業を。

労働後にひと遊び出来る人を化け物か何かだと思っている

全日本仕事が辛すぎるのでもう帰りたい協会の人間は、体力と精神力を消耗しきっているのがデフォルトなので、一刻も早く帰りたいがその後でひと遊びするなんてとんでもない、そんなことをしたら本当に死んでしまうと思っている。一方で全日本やりたいことがあるのでもう帰りたい協会の人間は、なんとまあ驚くべきことに、労働で消耗した体力と精神力を、労働後のひと遊びによって回復させるのである。元々同じ協会に所属する同じ人間だったはずなのに、どうしてこれほどの差が生まれてしまったのか。その上残酷なことに、全日本やりたいことがあるのでもう帰りたい協会の人間が帰宅後に何もせずベッドへ一直線するのは簡単なのに、全日本仕事が辛すぎるのでもう帰りたい協会の人間が退勤後に居酒屋で一杯引っ掛けるのにはとてつもない困難が伴う。現に私が労働後にやれることなんて、コンビニに寄るか、ブログを書くか、ニコニコ動画を見るくらいしかないのだ。結構あるな。

「つまらない」に負けるんじゃない

オチが思いつかないので話を少し別のことに移そう。「つまらない」という感情は全てを殺す件について。今週は平凡でつまらないなとか今月はイベントが無くてつまらないなというくらいならまだいいとして、自分の人生がつまらないなと感じ始めたらそれは比喩ではなく現実に殺されかけているのである。本来なら何か楽しいことをしていてもいいはずの時間に「つまらない」と感じることは、「つまらない」の殺意が本気を出している証拠である。だってほら、つまらないならなんかしたらいいじゃん。好きな漫画を読んだり、好きな音楽を聴いたり、好きな番組を見ればいいじゃん。コンビニに行って酒とつまみでも買ってくればいいじゃん。カラオケにでも行けばいいじゃん。つまらない状態を脱したいと本気で思ってるなら、なんかすればいいじゃん。小さな子供が今のごっこ遊びに飽きて次の遊びを考える時のように、次の娯楽を考えればいいのである。幼い頃は確かに「つまらないなあ、次は何しようかな」と考えることが出来たはずだ。なのに今と来たら、「つまらないなあ、つまらないなあ、つまらないなあ……」とそればかり延々ループしている。幼い子供の方がよっぽど生きるのが上手い。人間がじょうず、人間がじょうず。

人生は……ラーメン

理想の帰宅とは、あったかハイムが待っていて、クリアアサヒが家で冷えているような状態のことだ。ところが現状の帰宅と来たら、あったかハイムがキンキンに冷えているし、クリアアサヒが家で煮えたぎっている。帰った後にやるべき雑事が山積みなのも、楽しみが何一つ無いのも本当にどうにかしたい。つまらない労働の後に追いつまらないをするのをやめたい。人生ラーメン、つまらない抜きの、楽しいマシマシで。

 

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