珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

「特にない」についての覚書|「ある」を「ある」と認識できなくなるとこうなる

心が植物状態ですね

普段のブログ記事は「こうこうこういうことが言いたい衝動」からの「頭を大きく回してクソポエムをひねり出す運動」からの「クソポエムできた(うっとり)」の流れを経て後悔 公開しているのだが、今回は正真正銘の行き当たりばったりで書いていこうと思う。記事のひりだし方に触れたついでに言うと、当ブログの傾向としては、「今日こんなことがありました」という出来事型よりも、どちらかといえば「今日こんなことが頭に浮かびました」という思考型の側に寄っていると思う。その理由は至って単純で、毎日、特に何もないからである。それに加えて、趣味や特技を聞かれても「特にないです」以外の返しを持たず、休日の過ごし方といえば「特に何もしてない」のが定番で、自由記入欄には「特になし」と書くのがお決まりな上、質問ありますかと問われても「特にありません」としか答えられない究極のナッシングスペシャウーマンここに在り。ヒトとしては生きているけれど、人としては死んでいるこの感じ。果たして「特になし」人間に未来や希望というものは存在するのか。特にないですね。

むかしむかしあるところに特にない女がおりました

「特にない」に対する嘆きは、過去の記事でも幾度となく言ってきたことだ。というかそれしか言ってない気もするが。神様もよくぞまあ、ここまで特にない人間を造ったものだ。とはいえ最近では、特にないのもまあ別にいいかなと思っている。決して自棄ではなく、極めて穏やかな受容として。ただ、特にない人間のまま人生を終えてもいいから、私がこの「特にない」を貫き通した人間だったことを、誰かに知っていてもらいたい。ある時から死ぬまで一貫して特に何もなかった私の人生が、「特に何もなかった人の人生」と題されて博物館のはしっこにでも展示されていたら、それはどれほど名誉なことだろう。一昔前の小学生の体操服のゼッケンみたいに、太い油性ペンで「特にない」とでかでか書いて、胸のところに縫い付けて、それを堂々と誇っていたい。それだとまるで私が名前のない人のように見えるけれど、「特にない」は私の人生の名前であって、私の名前は別にあるから大丈夫。

話が変わるような変わらないような

お金を頭に住まわせることは出来ないし、モノを心に入れておくことも出来ない。けれども、「ウヒョーお金!何に使おう!」という考えを頭に住まわせることなら出来るし、「ウヒョー良いモノ!いつ使おう!誰に見せよう!」という気持ちを心に入れておくことなら出来る。お金をお金のまま、モノをモノのまま頭や心にブチ込もうとすると、それはただただ自分の外側に積まれていく物質のままで終わる。みんなはとうの昔に気づいてたんだろうけど、私は最近になって気づいた。というか、忘れていたことに気づいた。昔はたった500円のお小遣いでどうしてあんなに金持ち気分だったのだろう。シャーペン1本、メモ帳1冊、キーホルダー1個がどうしてあんなに嬉しかったのだろう。その頃の気持ちを忘れない人は忘れないし、忘れてしまう人は忘れてしまう。貯金も私物もあの頃よりずっとずっとずーっと増えたけれど、やっぱり特に何もない。

記事のオチは

特にないです

 

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