珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

危機感のない26歳高卒フリーターがにょろにょろしているだけの覚書|酢豚食べたいなあ

なんとか致命傷で済んだ

94 風吹けば名無し 2020/03/15(日) 21:36:27.52id:BTxtlRT80
>>89
26歳高卒フリーターよりダサいもんとか無いやろ

26歳フリーターなんだが人生逆転させたい

 ぐえーっ

フリーターにしてはあっけらかんとしてる方だと思うけど

記事を書いている途中で削ってしまったがこのまま記憶の彼方に葬るのも勿体ないしいつか使えるかもしれない、という文章をぽいぽい放り込んでおく下書き、「ごみばこ」と題された記事もめでたく3本目を迎えた。とはいえこの中で腐っている文章共を再利用出来た試しはないのだが、どうにも削除する気になれず、何となくリサイクル出来そうなものを探してそれらを読み返していた結果がこの有様である。過去の自分は何でこんなものを保存しておこうと思ったのだろう。だがここで「ぐえ~やられた~」とかアホやってる内はまだ一縷の希望があるんじゃなかろうか。ここで言う「希望」は正社員就職とか結婚して玉の輿とかそういう人生大逆転の話ではなく、XX歳高卒フリーターという己の経歴に対して無反応でいられる時期がやって来るだろう、という鈍色の希望である。そういったドブ臭い希望はあるが、その希望をむしゃむしゃ食い尽くしているのも自分である。頭は絶望、尻尾は希望で出来ているウロボロスが、自分の尻尾を噛んでぐるぐるしている感じ。

「人」という字の下両端を引っ掴んで無理矢理左右に引っ張ればにょろにょろ蛇になりますし

危機感が無いのが1番危険だということは分かっているが、自身の危機感の無さに救われている部分が大いにあるので、許されるのならもう少しの間だけ危機感が無いまま生きさせてほしい。些細な事柄に関しては超が付くほど心配性な癖に、肝心な部分で楽観的というのはある意味では救いようがなく、ある意味で救いだと思う。そう、正直なところ、自分でもどうかと思うほど危機感が無い。自分よりずっと行き当たりばったりな人を大勢見過ぎたせいなのかもしれないし、危機感は既に1周したのかもしれないし。或いは、底辺を這いずり回りすぎて、人であるということを忘れてしまったのかもしれないな。にょろ~ん はぐろさん。

型に嵌るなってそういうことですか

「底辺を這いずり回っている」ということが一種のプライドと化してしまった気がして、もう二足歩行する気にもなれない。どこのどいつが拵えたのか知らんが「白黒れむは人として底辺です」という立派な鋳型があって、その形に合うように合うように人生がねじ曲がっている気がする。私があって私の人生の型が決まるのではなく、私の人生の型があって私がそれに収まっているという感じ。私がある前に私の人生の型があるのっておかしくないですか。私の人生の型を取るためには私が必要で、でも私の人生の型を取った時点では私は存在しないわけでしょ。もしかして私の人生って2周目なんだろうか。それにしちゃあ1度目の人生から何も学んでないし何も受け継いでない。レベルの強制リセットとか所持品の強制リセットとか1番萎えるやつだから本当止めてほしい。それはそうと、これから私が私の人生をどうにかするためには私の人生の型を加工するしかない。私の人生の型に合わせて私が変化しているのなら。「白黒れむは人として底辺です」という型を四方八方からぶっ叩いて形を変えて、最終的に「白黒れむは人として最高です」という型を……作るには……多分3周目……いやもっと……が必要だ。もう1周行ってみよ。

酢鶏って料理があるらしいけど要するにそれって酢豚ですよね

ここで私の暴論を聞いて欲しい。私の中では酢豚のあんを掛けたら牛だろうが鶏だろうが馬だろうがワニだろうがヒトだろうが酢豚なのだ。何の肉を使っているかなんて関係ない、揚げた肉と野菜に酸っぱいあんを絡めたらその時点で酢豚だ。誰が何と言おうと酢豚だ!具材に合わせて「酢豚」という概念が変化するのではなく、「酢豚」という概念に合わせて具材が変化するのだ。酢鶏」も「酢牛」も私の中には存在しないが、「酢豚(鶏)」や「酢豚(牛)」は存在する。汝は豚。

 

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