珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

底辺の底辺による底辺のための哲学についての覚書|「たのしい哲学ごっこ」のすゝめ

さっぱり分からんということが分かった

カントとゲーテをまともに読んだことすら無いというのに、ゲオルク・ジムメル『カントとゲエテ』を読んでいる。分からん。さっぱり分からん。それもそのはず岩波文庫から出ているこちら、1922年に出版されたものを1928年に改稿したものであるからして、古い論文を読んだことのある人間なら分かるであろうが「日本語だけど日本語でおkと言いたくなる あの・・ 文体によって記されている。そしてこれは私の体感なのだが、主語と述語、指示語と被指示語が終始触れそうで触れられないもどかしい距離感に置かれており、作品自体の難解さと私自身の物覚えの悪さも相まって、ようやく文末にたどり着いた時には「で、何の話だっけ?」となっている有様である。

想像生まれ現実育ち 悪そうなイデアは大体友達

まともに哲学書を読むのに必要なのは想像力なのか、現実力なのか。いやね、哲学は決して想像力に規定された産物ではなく、それどころかむしろ目の前の世界を見つめすぎておかしくなった人間が真心込めて育て上げたSAN値直葬 産地直送の新鮮お野菜と言っても過言ではないのだが、例えるならそう、想像の怪物を現実で自由自在に飼い慣らすくらいの胆力が必要だと思う。感性の上、理性の下、現象の右、経験の左、主観の前、客観の後、認識の先、直観の奥、そういう得体の知れぬ怪物たちを現実に引きずり出して、調教してやらねばならぬのである。片目で現実を見ながら想像に逃げるのが得意な 我々 私 ぼく お前 一般人 陰キャどこかの人間が最も嫌うところの、片目で想像を見ながら現実に逃げる芸当。しかしまあこれは本気でやろうと思ったらこうなるという話であって、そうではなくちょっとした読み物として、日常のスパイスとして取り入れようと思ったら、想像の怪物は忠実な名犬になる。これはあとで。

かわいそうなプロタゴラス先生すこ

『饗宴』『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドロス』『パイドン』と来て、『プロタゴラス』を読んでいるのだが、これまで専ら「ソクラテスを慕う人々に対しソクラテスが説き教える」形式の話だったのだが、『プロタゴラス』においてはソクラテスプロタゴラスがめちゃくちゃバチバチしているのが新鮮で面白い。まだ最初の方しか読んでいないけれど、プロタゴラス先生はソクラテス無自覚を装っためちゃくちゃタチの悪い煽りにも負けず是非とも頑張って欲しい。プロタゴラス先生が泣き出さないか今から心配している。私ならもう泣いてる。にしたって、今から2000年以上も前に、これほど高度で深遠な思想が……という捉え方は失礼極まりないので止めておこう。2000年前にスマートフォンは無くとも、思考する頭はごまんとあったのだ。

川辺で考える葦、自宅で考える阿呆

私が(全く)足りない頭で小難しい本を読むのは、精神の慰みのためである。アホなので難しい話なんか1%も分かっちゃいない。ただの慰みであり、偉大なる慰めである。我々が見ている現実は所詮表面上の現実で、我々が感じている不快は所詮目先の不快で、我々が感じている絶望は所詮うわべの絶望である、という救いを我々にもたらし得る(必ずそうとは限らない)点においては、哲学はある意味「底辺のための学問」だと思う。疲弊して、絶望して、堕落して、何もかもを放り投げて無一文の真っ裸になったその状態こそが、始めるのにうってつけだろう。自称底辺の人間にこそこういうものに触れて欲しいが、自称底辺は総じて意識高そうな分野への抵抗が強く、難しいことへの嫌悪が強く、現実で酷い目に遭ったくせに現実の肩ばかり持ち、非ィ科学的なことを馬鹿にする傾向が有るため、結局「頂点のための学問」に収まらざるを得ない。それじゃ面白くない。いいかね、仕事も、お金も、人間関係も、楽しいことも楽しくないことも、辛いことも辛くないことも、とにかくなんもかんも嫌になって、現実とえんがちょしたい人間が、まだかろうじて現実と繋がっているその糸がぷっつりと切れるのを、奴らは虎視眈々と狙っているのだ。その糸が切れた瞬間、待ってましたとばかりに切れ端を手繰り寄せ自分の糸と結びつけて、思いっきり引っ張り上げてくれるのが連中だ。そうなれば現実は最早艱難辛苦の舞台ではなく、宙吊りになったあなたにとってはただ「見る」対象にすぎないのだ。現実から逃げていたあなたは、今となっては現実「に」逃げることだって出来る。

アホのみんな!哲学はいいぞ!

 

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