珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

古いものとの闘争についての覚書|まったく世の中敵だらけだ

新しいぶどう酒は新しい革袋へ

新しい家を古い土台の上に建ててはならない。古い土台は脆く、崩れやすいからである。近頃は何やら新しい生活様式だの新しい仕事スタイルだのと騒がしいが、我々が何か新しいものを興そうとするならば、それらを古い文化、古い常識、古い習慣の上に打ち立ててはならない。そんなことをすれば、古いものと新しいものとの間隙から不都合がシロアリのように這い出して、古いものに巣を作り、新しいものを食い千切るだろう。或いは古いものそれ自体が1匹の巨大なシロアリと化し、新しいものを齧り尽くしてしまうかもしれない。人は四六時中、得体の知れない不都合に蝕まれながら生きることになる。新しいものに住み着いた人間が、シロアリの存在に気づくまで。もしくは、新しいものが根元から倒壊するその時まで。

頭おかしい連中の相手をクソ真面目にやってるとこっちまで頭おかしくなってくるってどっかの限界フリーターが言ってました

「良質なサービス」と書いて「心にも無いこと」と読み、「丁寧な接客」と書いて「マニュアル」と読み、「おもてなし」と書いて「はよ帰れ」と読む、あの辺の文化をそろそろ廃しても悪くないと思うのだが、如何。なにせ、心にも無いことはどこを探しても無いのだ。そこに無ければ無いのだ。倉庫をひっくり返して爆破したって無いのだ。これらの廃止を提案する理由はただ煩わしいからではない。人が死ぬからだ。この時代にあって、人が文化や、常識や、習慣――それが古いものであれば尚更――に殺されることなど断じてあってはならない。たとえ生まれたばかりの赤子であっても、一度生まれたからにはそれらに対抗し、打ち勝つだけの力を常に備えておかねばならない。それらはいつも家畜のように小屋に繋がれて、人の手で育てられ、人の手で飼い慣らされ、人の手で躾を受けながら、必要とあらばいつでも人の手で葬られなければならない。家畜が人を食い殺すなど、以ての外である。先祖代々大切に育ててきた年代物の牛だろうが馬だろうが羊だろうが、それらが今生きている我々の手を噛み、あまつさえ我々の急所に歯を立てようというのなら、すかさず鍋の具材にしてしまえ。ただし、古い肉を新しい土鍋にぶち込まないよう注意しながら。今夜はすき焼きだ!ヒャッホウ!

「今から日本の文化を決める話し合いをします」

ある地域における文化や常識や習慣が、現在生きている人々にとって概ね良いもので、また未来の人間にとっても概ね良いものであるように議論を重ねるための会議室、実験を重ねるための実験室が、残念ながら人間界には存在しない。あたかも天地創造のごとく、まず混沌があって、その混沌を色々な人間がおっかなびっくり突っつき回した結果、「うわっなんか出た」となる。その後長い時間をかけて輪郭が浮かび上がってくると、そこでやっと人間はその全体像を把握出来るようになり、「ウーン、こいつが4本足で白黒模様でモーって鳴くことは分かった。ただ当たりかハズレか分からんからとりあえず小屋に入れて餌あげとこ」となる。そこから試行錯誤してそいつの生態を把握する頃になってようやく、そいつが酷い暴れ馬(牛だけど)であることが判明する。しかしいくらそいつがじゃじゃ馬(牛だけど)であろうと、手をかけた分殺してしまうには惜しい。結果、ズルズルと飼い続ける羽目になり、なんやかんや、なんやかんや。これが文化や常識や習慣。混沌から何が出てくるか分からない家畜ガチャ。チョコエッグかよ。

権力による強制は失敗するって歴史が言ってる

我々の世界に「今年の日本の文化を決める会議」とか「今年度の東京の常識を決める会議」のようなものがあったら一体どうなっていただろう。上手くいかないことは目に見えているけれど。今日施行された文化がその日のうちに反乱を起こして人間に噛み付いてくるかもしれないし、昨日施行された常識が翌日には崩壊して家畜小屋が全壊しているかもしれないし、そうなったら会議で賛成票を投じた人たちは全員打首獄門だろうし、いくら積まれようが絶対にその会議には出たくない。文化や常識や習慣を前もって決めるというのも、それが神ではなく人の手に委ねられるのなら、結局はガチャなのだ。何もかも分からない事柄について、何もかも分からない人たちが、何もかも分からない案を採択して、あとはお祈り。それしかない。「犬飼うの初めてだしよく分からんけど土佐犬っていうやつにしたろ!」とか「猫の種類とか全然知らんけど強そうだしライオンっていうやつにしたろ!」みたいな、そんな感じ。土佐犬やライオンがどういう生き物なのか全く知らない人たちが、とりあえず生みたいな感覚でそいつらを選んで、そいつらを上手く飼い慣らせることをただただお祈りする。いや、この場合飼いならすべきなのは動物の方ではなく人間の方なのでは……?

人の心を壊す先生「人の心を壊しちゃいけません」

人が嫌がる文化はしません。人が嫌がる常識はしません。人が嫌がる習慣はしません。「先生」とのお約束です。そんなお約束について、全ての人々と指きりげんまん出来ればいいんですけどね。まあ現実では、約束をさせた側の「先生」がお約束を破っちゃったりするんですけどね。人が嫌がる文化、人が嫌がる常識、人が嫌がる習慣、そういうものにじわじわ蝕まれて命を落とす人間がいなくなるといいですね。

 

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