珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

世にも奇妙なおひとりさまライフへの布石についての覚書|私、魔女のキキです。こっちは重複承認の自自

あーあ、自他ともに認めるところでありたいな

人が自身の主張に関して「自他ともに認める」と言う場合、字面通り「自」と「他」によってその内容が認められる必要があるわけで、つまり、本来「自分でそう思っている」+「他人にもそう言われた覚えがある」=「自他ともに認める」という方程式が成り立ってはじめて「自他ともに認める」という言葉を使えるのだ。ウン。当たり前だな。ところで、「私はケチである」という主張を 補強したいがために・・・・・・・・・ 「私がケチであることは自他ともに認めるところである」と言おうとして、はて、私に面と向かって「お前はケチだなあ」と言った人間がいただろうか、と考えたときに、そういえば兄貴に言われたなとか大学時代の友人に言われたなとか心当たりがあれば、それで何ら問題は無いのだ。一方で「自他ともに認める」という言葉を是非とも使いたい場面で適当な「他」を見繕えなかった場合、その場でイマジナリー「他」を拵えても、まあ、重要な場面外であれば特に問題は無いわけだ。イマジナリー「他」は要するに「自」なので、つまるところ「自自ともに認める」だけの話で、その虚しさを許容出来るのであれば。

 

ただ一言「あなたは服を着ています」と言ってくれ

 極端な話が、自分の存在を認めてくれる何かが無い限り、いくら自分で「私は存在しています」と主張しても、自分という存在はただ「自分でそう思っている」だけのものであり、そこには自己の存在に対する安心が致命的に欠けていて、この先はただ自分に宛てた自筆の保証書を握り締めて生きるしかないのである。もし私がここで記事を読んでいる諸兄に向かって「今、私は服を着ています」と主張しても、「自分でそう思っている」だけで、私が服を着ている事実を保証するのは自分しかいないのだ。もしかしたら、今の私は服を着ていると思い込んでいるだけで、実のところ全裸でキーボードを叩いてるかもしれない。いや、私は確実に服を着ているはず。それは私が保証します。他に保証人はいません。けれど、私の想像上の他人はきちんと「あなたは服を着ています、私が保証します」と言ってくれています。その他人は実際他人ではなく私なのだけれど、私と”私”が保証しているから、きっと私は服を着ています。私が服を着ているという事実は、はっきりと、「自自ともに認める」ところであるわけです。……私は本当に服を着ているのかな?

 

おひとりさま、更なる高みへ

しかしこの、「自自ともに認める」の活用如何によっては、真のおひとりさまライフを満喫することだって可能なのだ。己の根幹の諸々について、「自分でそう思っている」+「自分でそう思っている」の式で満足出来るようになりさえすれば。デカルト先生のありがたい言葉を都合よく捻じ曲げて自論に当てはめるならば、自他に認めてもらう必要はおろか、自自にさえ認めてもらわずとも、「自」ただ1人が認めれば、いや「自」に認めて貰いたいなあと考えている自分がいれば、それの時点で既に我はあるらしいのである。とはいえ、我思う故に我ありで存在が成立したとしても、果たしてそれで自己の存在に対する安心まで成立させ得るだろうか。存在の安心、自分がきちんとここにあるというあたたかな実感――それが本当にあるかないかは大した問題ではない。「自分は全然ここにない」と思っている生身の人間と、「自分はきちんとここにある」と思っている幽霊と、どちらが幸せなんだろうな。

 

畜生!騙したな!

世界の中で自分の存在がどんどん希薄になっていき、存在の安心も実感も失ってもう間もなく消滅するという土壇場にあっては、イマジナリー「他」であるところの「自」をいかに素早く組み上げられるかに、自分の存在の存続が懸かっている。イヤイヤ、もう存在の存続なんか要らんから、さっさとこの辺で終いにしてくれんかね。ウゥン、そう望むなら勝手にそうすればいいさね。ただそう言われたとて、肉体は残るんだからねえ。存在を失ったまま、肉体は生き続けるんだからねえ。存在が死んだら肉体も死ぬんじゃないのかって、あのね、あたしゃ肉体=存在なんて言った覚えは1度も無いよ。存在が死んだのに生きている肉体と、存在は生きているけれど肉体が死んでる幽霊、幽霊の方がまだ、 生き生き・・・・ してるだろうね。

 

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