私の頭の中の3歳児についての覚書|記事閲覧はお食事後にお願いします
うんこ(思考放棄)
参った。私の頭の中の「私」の知能が3歳児くらいしかない。というのも、外側の私が誰かに向かって「すみません、お手洗い行ってきます」と言っている時、頭の中の私は「うんこ!」と言っているのである。いくら他人に聞かれる心配が無いからって、この歳になって「うんこ!」は無いだろう。まあそれはさておき、世の中の大人たちが出先でめちゃくちゃ催している時に、口では「お手洗いに行ってきます」と言いながらその頭の中では一体何と言っているのか、少し気にならないだろうか?「私は今、便意を催しています」と英語の例文みたいなことを言っている人はそうそういるもんじゃないと思う。「あっやばいめっちゃトイレ行きたい、ヤバイヤバイトイレ、トイレ」辺りが妥当ではなかろうか。そんなことを頭の中で考えながら涼しい顔で歩いている世の中の大人たちはすごい。頭の中はトイレ、トイレでいっぱいなのに、「あー、その前にちょ~~っとお手洗い行ってきていいですか?」なんて澄ました顔で余裕綽々に言えるんだから。とはいえ一部の人はやっぱり――「うんこ!」って言ってるんじゃないかしら。
頭の中なら何言っても怒られない
こんなことを至極真面目に書いているのも大概バカバカしいが、しかし頭の中の自分にはいつまでも子供のように振舞う権利が保証されている、という点は少し掘り下げたい所である。勿論、それは「誰が来ても絶対に玄関のドアを開けちゃいけません」という決まり付きではあるが。子供のように振舞っている頭の中の自分が言いつけを破って玄関のドアを開けたが最後、良くて大恥をかき、悪くて社会的に死ぬ。そうならないように、サイレントヒル4の主人公の住むアパートのドアの如く、頑丈な鎖で縛り付けてガチガチに密閉しておく必要がある。そのようにしておく限りにおいて、頭の中の自分はいくらでも無邪気に振舞っていい。尻を出してもいいし、うんこちんちんと叫んでもいいし、お袋ないしババアのことをママと呼んでもいい。現実の自分よりよっぽど権利を所持している。子供の頃の権利に比べて、大人になって得られた権利のなんと無味乾燥なことか。酒が飲める、煙草が吸える、財力に任せて大人買い出来る、エッチな本が読める……そんなことよりやっぱり堂々と「うんこ!」って言える方がいいと思うね。
円卓の私団
大人になってそこそこ経つが、未だに「大人らしい感覚」が分からない。それどころか私の感覚はずっと小学5、6年生あたりから地続きで、12歳らしく振舞えと言われても普段通りにやってればそれで12歳の私とほぼ変わらないと思う。低学年の頃はさておき、高学年の頃は既に陰キャコースまっしぐらだったし。先日、楽天市場で可愛い黒猫のクッションをポチりながら、はて、大人はこんな可愛い黒猫のクッションをポチってもいいものだろうか?猫のぬいぐるみだってあんなにあるんだぞ?と思いつつ、結局買った。12歳の私に購入許可を求めたら「承認」って返ってくるだろうし、念のため15歳の私や18歳の私や20歳の私に尋ねても「承認」って言われるだろうし、逆に30歳の私や40歳の私に訊いてみても「承認」と返されるんだろう。感覚が地続きである限りは、過去の私も未来の私も反対などしないのだ。
かわいい。これは全会一致で承認不可避。
見た目は大人、頭脳は子供
バイト先の人も、まさか私がブログでうんこうんこ書き散らかしてるとは思うまいし、ましてや頭の中でうんこうんこ言ってるとは思うまい。四六時中言ってるわけではないけれど。しかし、頭の中で考えていることは 噯 にも出さず(出したら大変なことになる)、人前で涼しい顔して働くのは気分がいいものだ。その皮1枚めくったら3歳児の私が飛び出してくるというのに。ところで、12歳の私はこんなにうんこうんこ書いたり考えたりしてなかったし、10歳、8歳の私も流石にそういう類の言葉を面と向かって発することは卒業している頃だと思う。これは明らかに退行というやつでは?