珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

物というものについての覚書|物だらけの地球(ほし)の中心で意味不明な供述をしており

買った時点で満足し終えるタイプ

先日、ドカンと物を捨てた。私の場合、物を増やしたい期と物を減らしたい期が代わる代わるやって来るので、増やしたい期に買って放置していたものを減らしたい期に未開封のまま捨てるなんてこともザラであり、彼らが一体何のために生まれて何のために死んでいったのか、またそれに費やした金銭が一体何のために生まれて何のために死んでいったのか、毎度毎度他人事のように首を傾げている。まあそれはそれとして、この時代にあっては、何かを手に入れることも、手に入れたものを手放すことも、一度手放したものを再び手に入れることも、再び手に入れたものを再び手放すことも、我々からすれば朝飯前なのである。物で溢れかえったこの地球、もはや水の惑星というより物の惑星と呼ぶほうが相応しかろう。

 

私は断捨離家でもミニマリストでもありませんのでこれはただの白黒イズムです

断捨離だとかミニマライズだとかそういうことを実践している人間なら誰しも、「真に必要な(有るべき)ものとは一体何か?」「物に依らない真の充足とは一体何か?」という問題に必ずぶち当たると思う。というかむしろ、そういう問題にぶち当たらないのならばその実践の意味はほぼ無いに等しかろう。物を無造作に捨てるだけなら我々よりも幼子の方がよっぽど巧みに、かつ潔くやってのける。それにもし、捨てるという行為そのものによる快楽のために物を沢山捨てたいのならば、まず物を沢山買ってきて、それから沢山捨てればよろしい。目指すべきは「捨てるという行為による瞬間的な快楽」ではなく、「真に必要な(有るべき)ものだけで満足出来る心による永続的な快楽」である。とはいえこれはやってみると案外簡単なもんで、私の経験上アレやコレを捨てたところで大した不便もしないし、ふとした時に存在を思い出したりはするけれど、無くても全く問題ない場合がほとんどで、大抵は綺麗な満足に終わった。つまり、これまで真に必要でないものを必要だと思い込み、真に必要でないもので周りを満たしておかなければ満足できない心になっていたということなのだろう。この綺麗な満足を積み重ねて、「真に必要な(有るべき)ものだけで満足出来る心」を作っていけばいいのだ。

 

これは余談

以下は私の経験に基づく偏見なのだが、人間ある程度悟ってくると、何かを手に入れたり作り上げる快楽よりも、手放したりぶち壊したりする快楽の方が圧倒的に大きくなる。出会いや生成よりも別れや消滅に悦を感じ始めるのである。断捨離だとかミニマライズに傾倒するような人間は大抵、これまでの人生において何かしらの悟りを得ているので、そうではない人間がぽいと物を捨てる時と比較すると、神懸かりの如き快楽を得ている。前回の大掃除の時には勿体無いという気持ちの方が大きくてどうしても捨てられなかったものを、今回思い切って捨てられた時に得られる快楽の大きさといったら、そりゃもう神さび状態である。あの高揚といったら、日本最古の ストリッパー 踊り子アメノウズメ然り、シヴァ神の腹に乗って踊るカーリー然り。

 

米食べろ

ところで、「真に必要な(有るべき)ものとは一体何か?」という問いの答えに相応しい物質が本当に存在するのかどうか怪しくなってきたのだが皆様は如何。だってほら、水や食べ物の類は確かに必要だけどそういうことじゃないんだよな感が否めないし、火や服も人生に不可欠だけどそういうことじゃないんだよな感が否めないし、かといって水道や電気やガスもそういうことじゃないんだよな感が否めないし、本は大切だけど無くたって生きていけるし、家電やパソコンやスマホに至ってはもうお話になりませんといった具合ではないか。断捨離やミニマライズの結果得られたものが「私に必要なものは水とパン!おしまい!」じゃああんまりだ。エピクロス先生じゃあるまいし。まあ結局のところ、水とパン、強いて足すなら火と衣服、それら以外に真に必要な(有るべき)ものなんかこの世に存在しないんだから、自分が心底好きなものが真に必要な(有るべき)ものってことでいいんじゃなかろうか。しらんけど。そう考えると、いかに地球が人間の欲求によって散らかっているかがよく分かる。ひっくり返されたおもちゃ箱が綺麗に片付けられる日は来るのだろうか。

 

で、「物に依らない真の充足」ってなにさ

わかんない

 

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