珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

知性が滅びた頭で考える「滅び」についての覚書|暑すぎ脳みそアイスクリーム三段重ね

過去は良くならない代わりに悪くもならない

後先考えずに行動すれば未来の自分が滅びることは誰の目にも明らかなのだが、反対に後先考えすぎると今度は現在の自分が滅びてしまうわけで、わた……我々はどう足掻いても滅びと隣り合わせで生きなければならないらしい。そんな自分を肴に悠々酒を呑んでいられる過去の自分は、既に滅び去った者としての余裕を有している。過去の自分は決して滅びを恐れたりしない。そこにあるのは既に滅びた者の余裕なのである。例えるなら、ドッジボールで枠内にいる間は必死になってボールから逃げ回っている人も、一度ボールに当たって枠外へ出てしまえば、そこに「既に離脱した者の余裕」が生じるように。生きている者が死を恐れるのはまだ死んでいないがためであり、一度死んだ者になってしまえば死など恐るるに足らず。一度滅びた者になってしまえば滅びなど恐るるに足らず。あ~、それがし も早く滅びたいものですなあ。

 

※上の文章と関係があるようで全く別の話をしている

既に滅びた自分は今頃、一体何をやっているのだろう。というとあたかも過去の自分という存在が現在の自分と別個に存在しているような物言いになるが、たまにはそうやって「既に滅びた自分の今」について考えるのも悪くはない。厳密に言えば「既に滅びた自分」に「今」など無いのだが、既に滅びた自分が滅びたまさにその刹那に立ち会って、「はいカット、お疲れ様でした」と声を掛けてやれば話は別である。瞬間、「滅びた自分」は「滅びた自分というものを演じた役者」に変わるので、そこでこう、出演者インタビューみたいなことをしてやればいいのだ。撮影お疲れ様でした。イヤァ迫真の滅びでしたね。空になったコーヒーカップを机にゴンと置いた瞬間なんか、まさに「滅び」って感じでしたよ。今回の滅びを演じるにあたって意識したことなどありましたら是非教えてください。何言ってるんですか?

 

読書とブログが捗るすごいリクライニングチェアがほしい

自分というものは生まれて今まで切れ目も継ぎ目も一切ない滑らかな織物のような存在であると考えるのも、「1秒前の自分は1秒前の時間軸に固定された、既に滅びた存在」「1秒後の自分は1秒後の時間軸に固定された、未だ生じぬ存在」と考えるのも、もしくはそれ以外のやり方で進んだり作られたり流されたり跳んだり跳ねたり伸びたり縮んだりしていると考えるのも、お好みである。今回はせっかく滅びの話を始めたので、2番目の説でやっていこうと思う。今私は下品にも机の上に組んだ両足を乗せて文章を書いているのだが、両足を床につけていた時の自分は滅びたし、両足を組まずにただ机の上に乗せていた時の自分は滅びた。『今私は下品にも机の上に組んだ両足を乗せて文章を書いている』と書いていた時の自分も滅びた。そう考えると、色々な状態の自分があまりにも早く滅び去っていくので、今机の上に乗せている足を下ろすのも惜しくなる。今、この時に、机の上に組んだ両足を乗せて文章を書いている私は、この時限りの存在だからである。足を下ろせば、机の上に足を乗せている私は滅びる。そろそろおケツが痛いので、足を下ろそうと思う。さようなら、机の上に組んだ両足を乗せて文章を書いている私。グッドラック(よい滅びを)。

 

だいたいそんな感じ

滅んだはずの自分をわざわざ墓から引きずり出して一列に並べて、それに「後悔」とか「未練」とか「失敗」とか逐一丁寧に名前をつけて、あまつさえそれを「現在」において飼い慣らそうと試みるのも妙な話だ。彼らは死者なのである。彼らは己が滅びたまさにその瞬間にのみ生き続ける死者なのである。しかし、この滅び論で行くと良い自分も皆滅びた存在であって、自己は滅び続けるのだからそもそも「現在」の自分など存在せず、そこにはただただ生じながら滅びている自分が、厳密に言えば生じつつある自分の産着の抜け殻と滅びつつある自分の空の棺桶があるだけなのだが、アレッ人生ってこんな感じでしたっけ?こんな感じか。そうか。

 

 

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