珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

親愛なるチーズパンの墓に捧げる覚書|死んだはずのチーズパンが実は生きていて再び主人公一行に加わる展開は熱い

おいしいパンを亡くした

大好きなチーズパンが近所のスーパーからもドンキからも消えた。陳列スペースごと消えた。新陳代謝には勝てなかったようだ。彼のパンの名をもっちチーズパンという。歯触りの良いもちもちパンの上で濃厚なとろけるチーズとなめらかなごろごろチーズが大乱闘スマッシュブラザーズ。これだよこれ。チーズパンなんてものはとろけるチーズとごろごろチーズが戦場で組んず解れつしてナンボなのよ。世に蔓延るチーズパンの皮を被ったマヨネーズパン共は彼の遺灰を煎じて飲んでほしい。ああそれと、「チーズ好きのための」という堂々たる売り文句をその名に冠しておきながらその実態は具を乗せ忘れたピザだった某コンビニパン、あなたにも言ってます。まあ具を乗せ忘れたピザは論外にしても、チーズパンモドキ、もといマヨネーズパンはマヨネーズパンでまた異なる趣がある。どの売り場でも例外なき存在感を誇るあのデカさと、デカさの割に綿を食んでいるような驚くべき軽さと、軽さの割になんかの間違いなんじゃないかと思うカロリー。申し訳程度に添えられたハム。「デカくて安い」にステータス全振りした潔さは嫌いじゃない。ファミマのチーズパンモドキはクソでかくてそこそこ安い上にわりとチーズパンしてるのでコスパが良い。

 

リビングデッドと化したパン

もっちチーズパン、もしかすると探せばどこかで手に入るかもしれないが、私がよく行く店では軒並み手に入らなくなってしまったので、私の中では死んだ。何事もまず「所有すること」から始まる世の中、所有できないのなら何も始まらない、存在しないものと見做して差し支えないだろう。私の記憶の中には沢山の「かつて所有したり所有を欲したりしたが今となっては所有し得ないもの」が仕舞われているが、あいつらいい加減に削除出来ないものだろうか。私の頭の中が食品サンプルしか置いてない定食屋みたいになってる。材料がない、料理人もいない、注文を受けても提供しようがない、そんな状態で店前にトンカツ定食や焼き鯖定食のサンプルを並べて営業してもしょうがないんですよ。その店は来る客来る客全てに「トンカツ定食は今やってないんですよ」とか「焼き鯖定食は売り切れです」とか「たい焼きは店のおじさんと喧嘩して海に逃げ込みました」とかいう弁明を並べるつもりなのか?ああいや、私の頭の中の話なんですけども。

 

学芸員?院進学?何の話ですか?

過去の出来事としては忘れたいことも、知識としては記憶しておかなければならない。それ故に人は出来事の記憶と望まぬ想起を強いられる。例えば昔本気でサッカー選手を目指していたが色々あって挫折した、それがトラウマで今ではもうサッカーの試合を観ることも辛い、サッカーのことなんか思い出したくもない、という人でも、「サッカー」という知識は生活の都合上どうしても所持しておかざるを得ないわけだ。かつてはサッカーを愛していて、今ではサッカーを忘れたい人が、「サッカー?何ですか?食べ物の名前ですか?」というところまで 自力で・・・ 忘却を進めることは不可能である。「トラウマの治療」という形で記憶を和らげることは可能だろう。しかし自力での完全なる忘却はどう頑張っても出来っこないだろう。わざと事故に遭って長い間植物状態になったりわざと頭をぶん殴ってもらって数週間昏倒したりわざとバナナの皮で足を滑らせて記憶喪失になったりするなどしたら可能かもしれないが、そういうイレギュラーは別として。ニュースで「サッカー」という単語を聞くだけで辛い記憶を想起してしまう。人によっては「作家」という単語にさえビクッとするかもしれない。その想起するところのものを、日常生活に必要な知識を失うことなしに、スイッチひとつでポンと消すことが出来たなら、どんなに幸せでしょうね。

 

所有か、さもなくば忘却を

もっちチーズパンどっかに置いてないかなあ

 

 

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