珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

チャート式基礎と演習 人生Ⅰ+Aについての覚書|夏草や 弱者(よわもの)どもが 夢の跡

人生を 教えてくれろと 泣く子かな

最近人生のやり方をうまく理解してないなあと思うので改めて一から学びたいたいのですがどこに行けばいいんですかね

 

人生や 朝は東に  は西に

過去を振り返るに、19、20そこらまではあるべき人生のやり方に則っていた。もしかするとその辺りから既に迷走が始まっていたのかもしれないが、いやしかし、少なくとも小学生くらいの頃は確かに人生のやり方を理解していたはずなのだ。経験を重ねれば重ねるほど人生のやり方が分からなくなった。経験が道を開拓する。経験の先は常に道が広がっている。ある経験の先は行き止まりであり、ある経験の先は迷宮であり、ある経験の先は落とし穴であり、ある経験の先は猛獣の檻に続いている。経験による開拓はいつだって無責任だ。経験がまだ少なかった頃の、選ぶべき道が少なかった頃に戻りたい。見渡す限りのだだっ広い大地に、数本の小道が整然と並んでいたあの頃に戻りたい。どの道を選んでも平坦で歩きやすく、何度でも選び直しが出来て、あちこちに案内人がいて、善意のおにぎりとお茶がそこら中に置いてあったあの頃に戻りたい。年柄年中東西南北右往左往。

 

妄言を 集めてワロし なんじゃこりゃ

この世のどこかには未だ誰も読んだことがない全人類必読の人生基礎マニュアルがあって、それに載っている人生の基礎基本を習得していないうちに誰もが人生をやり始めるから人生のあらゆる場面において大小さまざまな苦しみが生まれたり、途中でしっちゃかめっちゃかになる人間が出てくるのではないか?という素朴な疑問。イヤイヤ奥さん、人生の基礎基本の習得無しに人生をやり始めるということ自体がそもそも有り得ない。人間は生まれながらにして人生の基礎基本を習得しているのであり、生まれて以降はそれらを「応用」することによって生きているのである。仮にある人の人生が途中でしっちゃかめっちゃかになるとしても、人生の基礎基本を習得したからこそしっちゃかめっちゃかになるまでの期間はやっていけるのであって、彼はある地点において「応用」を誤っただけに過ぎない。あらゆる人々が人生の基礎基本に関して未習熟だと言うのならば、ねえ奥さん、 生まれてから死ぬまで万事上手くやっている人たち・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ の存在はどう説明するんです。はて、そんな人いましたっけね?ああ、ええと、ここで言いたいことは、我々の言語では全く言い表せないような「人生マニュアル」「人生のやり方」「人生の基礎基本」なる超絶漠然とした概念が仮にあるとしたら、それは我々の人生を少なくとも平凡以上に導いてくれるし、途中でしっちゃかめっちゃかになるような事態も極力回避出来るのだろうなあ、という夢想。人間は人生の基礎基本の未習熟故に苦しむのか、応用の過ち故に苦しむのか。まあどっちでもいっか。

 

けん 押せば 音が鳴るなり 法隆寺

飲食のやり方とか排泄のやり方とか、服の着方とか靴の履き方とか、「お友達に意地悪はしない」とか「親や先生の言うことはちゃんと聞く」とか、そういうこともある種の人生の基礎基本であるが、これは言うなれば音楽における「ドレミ」であって、先程から私が言っている人生の基礎基本とは「音」のことなのだ。何言ってんだ?いやしかし、「音」というものが一体何なのか分からない状態で「ドレミ」を教わったってどうしようもないし、まして「和音」とか「拍子」とか言われてもチンプンカンプンだろう。ところで、幼い子供がピアノを習うに際し、最も初めに「音とはなんぞや」という講義を受けているかは甚だ怪しい。大抵の場合、「音とはなんぞや」などという説明をすっ飛ばして「ドレミ」からやり始めるだろう。何故なら、その子供が「音」というものを感覚的に理解している前提があるから。その子に向かって「『音』って何か分かる?」といちいち確認を取ったりしないし、彼・彼女が本物のピアノを習うよりずっと前、アーとかウーとか言いながら玩具のピアノをバシバシ叩いている時点でその子供は「音」について十分な認識を得ていると、我々大人は確信しているのだから。しかし、えーと、それが「人生」になると、我々は如何にしてその子供が「人生の基礎基本」について十分な認識を得ていると、確証を得られるだろうか。「ヨシヨシ、この子は人生の基礎基本が分かっているな」と、何を以て納得出来るだろうか。むしろ大人の頭の中は、「こいつはちゃんと人生の基礎基本が分かっているのか?この先の人生やっていけるのか?」ということで(無意識のうちに)いっぱいになっている。自分でも分かっていない人生の基礎基本を、(無意識のうちに)子供に期待しているのである。

 

人の道 一人散っても 人は人

ものの最も純粋な姿を知っているのは赤子であるが、赤子は赤子故にそれを言い表す術を知らない、よって我々はものの最も純粋な姿を捉えることは困難である、のようなお決まりの文言がある。私が学びたい人生は、余計な手が一切加えられていない人生基礎マニュアルの原本である。誰それの「応用」を全く含まない、誰それの「応用」という不純物が一切混じらない、誰それの「応用」によって鈍化されていないところの、全く純粋な「人生の基礎基本」。それは赤子が知ってるのかもしれないし、そうでなければやっぱり誰も知らないのかもしれない。ところで我々は 生基礎マニュアルのうちいくらかを確かな知識として所持しているが、犬に向かって「お前は犬生基礎マニュアルの中身を知ってるか」と尋ねたとて、ワンと言われて終わりだろう。ウーン、人生基礎マニュアルを所持しているのはどう考えても人間の上位存在ではなかろうか。いつか奴さんに「お前は人生基礎マニュアルの中身を知っているか」と尋ねられたら、すっとぼけてバブーと言ってやろう。

 

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