求めても与えられないものについての覚書|コミュニケーション能力:たわし
(※記事タイトルに致命的ミスがあったので訂正)
何度も何度もコミュ力とばかり
コミュニケーション能力の悲鳴が聞こえる。己にはそこそこの才があり、そこそこの知恵があり、そこそこの腕があり、そこそこの見る目があり、そこそこの素質があると考えている人間が、ただ唯一他者とのコミュニケーションにおいて少なからざる不得手を抱えている場合、人生の内に立ちはだかるありとあらゆる障壁は全て、「未熟なコミュニケーション能力」という習熟した壁職人の仕事であるとされる。己にはそこそこの才があるが、そこそこの才を他者に売り込むためのコミュニケーション能力が無い。己にはそこそこの知恵があるが、そこそこの知恵を他者に披露するためのコミュニケーション能力が無い。己にはそこそこの腕があるが、そこそこの腕を他者に供するためのコミュニケーション能力が無い。己にはそこそこの見る目があるが、そこそこの見る目を他者に向かって活用するためのコミュニケーション能力が無い。己にはそこそこの素質があるが、そこそこの素質を活かせるコミュニティに参加するためのコミュニケーション能力が無い。己をどんなに高めても、それに比例するように目の前の壁も高くなる。そんなわけで、いつも他者までありつくことが出来ない。こりゃ超一流の壁職人だ。
全人類力本願
己には何の才も無いと思っている人間が、他者によって隠れた才を見出される例はよくある。己は1人しか存在しないが、他者はこの世に77億人いるので、単純に考えれば才を発掘できる可能性が最大で77億倍あるということになる。或いは、才を発掘するのにかかる労苦が最大?最小?すまねぇ日本語はさっぱりなんだ、で77億分の1にまで抑えられる。77億は言い過ぎにしても、10人や20人程度の現実的な数字で見たら、まあなんだ、実に素敵なことだ。経験値10倍、最大90%オフ、ああ素晴らしい。人生においてもそれくらい得をしたい。全人類、私の才を見出す才を身につけて欲しい。
コミュ力は便利だなあ
コミュニケーション能力は、食べてもいいし、飲んでもいいし、財布の中に入れといてもいいし、自宅の鍵に付けておいてもいい。煮てもいいし、焼いてもいいし、蒸してもいいし、炒めてもいいし、生でもいい。食後に水で流し込んでもいいし、患部に貼ってもいいし、いちご味のゼリーで包んでもいいし、中にチューっと注入してもいいし、外にサッと塗ってもいい。アウトドアに連れて行ってもいいし、読書のお供にしてもいい。つまるところが、あまりにも万能なのである。ありとあらゆる物事全てに応用出来る、ありとあらゆる物事全ての基礎である。自力では何も出来ない赤ん坊がそれを用いて生存を図っている点を考えるに、そう言ってもいいだろう。コミュ障の赤ん坊というのは未だ聞いたことが無い。赤ん坊がコミュ障だったらそのまま死んでしまう。かといって赤ん坊は大人の脳内に直接語りかけているわけではない。ヘタクソかもしれない、メチャクチャかもしれない、それでも赤ん坊なりに一生懸命何かを伝えようと頑張っている。そう、赤ん坊の時には確かに出来ていたはずの「ヘタクソでもメチャクチャでもいいから相手に一生懸命何かを伝えようとする努力」。アレを一体全体どこに落っことしてきたのだろう。大切なものを落っことしてきた代わりとばかりに羞恥や恐怖や焦燥といった要らんもんばっかり拾ってきて、一体何を始めようというのだろう。言ってて辛くなってきたので関西風おうどん(¥88)食べます。
いいからさっさと詫びコミュ力配布しろ
食べました。ありとあらゆる物事全てに応用出来る、ありとあらゆる物事全ての基礎なのだから、ありとあらゆる人間に平等に配布されてないとおかしいと思う。太陽はありとあらゆる人間の上に降り注ぐし、1+1=2だってありとあらゆる人間に与えられるではないか。太陽が子供の上には降り注ぐが大人の上には降り注がないということはないし、金持ちにとっては1+1=2だが、貧乏人にとっては1+1=1.9であるということはない。アァ~~~しかし、コミュニケーション能力が「能力」である限り、ありとあらゆる人間に対する平等は有り得ないのだろうね。先程言ったものが「太陽の光を浴びる能力」とか、「1+1=2の能力」とかだったらヤバかった。一応補足しておくと「太陽の光を浴びる能力に劣っている」ことと「日光を浴びると良くない症状が出る(日光過敏)」とは全く別のもので、日光過敏は日光を「浴びて」症状が出るというものだが、「太陽の光を浴びる能力」が無かった場合、そもそも日光を浴びようが無いわけだし、日光過敏も発症しようがないのである。
体は天使の残業で出来ている
神様は全ての人間に対し平等に命を与えて(平等「な」命とはまた違う)、それだけで満足しておられる。「能力」は神の管轄外なのだろうか。神が「能力」の面倒までしっかり見ていたならば、生きるのに有利になるような「能力」をもう少しこう、ありとあらゆる人間に行き渡るよう、いい感じにやってくれると思うのだが。もしかすると神から正式に業務を委託された天使たちが一生懸命ダーツを投げて、人間1人1人に対し、運動能力からワサビを食べる能力に至るまで、途方もない数の能力をひとつひとつ決めているのかもしれない。累計人口1080億人分の。天使が何人いるのか知らないが、終電を迎える頃には流石の天使たちもくたびれ果てて、「たわし」に全てのダーツをひと思いにぶっ刺して、それで終わりにしているのかもしれない。そうやって出来たのが私かもしれない。