珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

激おこショーペンハウアー丸と読まない読書家についての覚書|岩波文庫の『青』はよく眠れるんだ

ところでここ最近はずっと「珈琲五杯」なんですよね

岩波文庫ショーペンハウアー『読書について 他二篇』を手に入れたので早速読み始めたら、1つ目の小篇のタイトルが『思索』でアヒッとなった。その内容は終始「思索(=自分で考えること)称揚と読書(=他人の考えたものを読むこと)批判」に徹しており、中でも読書から読み取った思想や読書から作り上げた思想のことを「他人の食べ残し」「他人の脱ぎ捨てた古着」「石にその痕をとどめる太古の花」「他人からえた寄せ集めの材料からできた自動人形」「他の肉を利用して整形鼻術がつくった鼻のようなもの」「買いあさった古道具」「異国の貨幣を通貨として使用する小国のおもむき」とかなりボロカスに言っており、多読を慎めとはっきり述べている。読書によって真剣に何かを得ようとしている人間に思いっきりぶっ刺さる内容となっていて、痛烈な批判の力によって全身がより糸のようによりよりされたり中尾彬のねじねじのようにねじねじされたりするのを感じる。『著作と文体』に至っては始まりから終わりまで先生が常にブチ切れている。ドイツ語はさっぱりなのでショーペンハウアー先生が言ってることの1/3程度しか理解出来ていないのだが、それでもただただブチ切れていることだけは伝わってくる。ショーペンハウアー先生、口喧嘩強そう。

 

いやあ大怪我するところだった

当ブログの副題は「思索のための思索」である。「思索」ではなく、あくまで「思索のための思索」、つまり「思索に至るための下準備としての思索」である。は~~~良かった。「限界フリーターの思索」とかそういう副題にしてなくて本当によかった。安堵の理由は簡単、先程も言ったが小篇『思索』においては、「思索」という行為がどちゃくそに持ち上げられているからである。『ライオンキング』においてシンバを持ち上げるラフィキの如く、或いは煮え滾る釜の中で我が子を持ち上げる石川五右衛門の如く。ああまで言われては己の身の程知らずを恥じて「思索」の看板や暖簾を下ろさざるを得ないか、さもなくば私の思考がショーペンハウアー先生の言う「思索」の領域に至るまで再び失踪せねばなるまい。ところが私のブログは「思索のための思索」なのでセーフ!

 

バッキバキの女王様より化粧が薄くて田舎っぽさの残る芋い女王様の方が興奮する

読書好きの人間が読書批判について読書する行為は、まァ酷く背徳的というか、スリリングというか、神に祈りながら罪を犯している気分というか、早弁行為に対するお説教を弁当食いながら聞いている気分というか、つまるところとてもマゾい。能動的なマゾだ。けれども健康的な自己批判のためにはそういうマゾい刺激も必要なのだ。SMクラブでもお気に入りの女王様に自分のダメなところについて言葉責めされながら踏まれたりぶたれたりして、己の卑俗さを存分に自覚して気持ちよくなったあと、最終的にお礼を言って帰るではないか。何言ってんだ?しかしながら、己の好ましく思う事柄に関して他者が表(著)した批判的な声明(書物)を定期的に摂取し、絶えず自己反省を加えながらやっていくことで、我々は盲目にならずに済む。それに「私は盲目になったのではない、ただ真っ暗闇の中にいるだけなのだ」というトンチンカンな言い訳をしなくても済む。真っ暗闇の中にいながら、自身が盲目であるか盲目でないかなど、どうやって判断するというのかね。

 

読み過ぎるな、考えろ

読書ブログは好きだ。しかし読書量をウリにしているブログはあまり好きではない。ただ一口に「読書量」と言っても色々ある。「1年で地元図書館の歴史書コーナーを読破しました」とか「1ヶ月でプラトンの著作を全て読み終えました」といったタイプの読書量ならば十分ウリにしていいと思う。その奥に「質」が透けて見える「量」は良いものだ。一方で、月に何冊だとか年に何冊だとか、中身が不透明な「量」のアピールばかりが延々続く場合に対しては割と冷ややかな目で見ている。そしてこれは素朴な疑問なのだが、大変な時間を読書に費やしている人は、読書の後で考える時間をどこから捻出しているのだろうか。教科書を読んだだけで志望校に合格出来る天才であれば話は違うが、そうでないのであれば誰しも教科書を読んだあとに問題を解くだろう。答え合わせをするだろう。解説を読むだろう。時には解説に納得がいかず、何度も何度も読み直したり先生や同級生に尋ねたりするだろう。時間を空けて再度解きなおすだろう。いやウン、私もね、多読家の気持ちが分からんでもないのだ。「人生を良くするとかナントカ、そういう高尚な目的のために読書をしているのではなく、ただ読書の愉しみのために読書をしているのだ。読書によって 得るもの・・・・ の愉しみのためではなく、読むという行為の愉しみのために読書をしているのだ」という気持ちは、大いに理解出来るところではある。それならばそれで全然良いのだ。いやほんとに!皮肉ではなく!ただ、「読書によって 得るもの・・・・ の愉しみのために、考える時間を惜しんでまで山のような読書をする」というのは甚だ理解の及ぶところではない。何も得てないやん!

 

天才にも天才なりに苦労があるというが隣の芝生は青いわけでやっぱり同じ苦労なら天才の苦労をしたいという凡人の呟き

とはいえ読書ブログを運営している人の中には「教科書を読んだだけで志望校に合格出来る天才」レベルの人がたまにいて、仕事はしてるっぽいし、たまに自炊もしてるっぽいし、休みの日にお出かけしたりしてるっぽいし、一応食事や睡眠が必要な体っぽいのだが、驚くべき読書量に基づく驚くべき濃さの記事をそこそこ頻繁にアップしていたりする。もしかすると仕事で読書するような職の方かもしれない。すげーなあ。

 

本読みは全員『読書について』『著作と文体』『思索』を読んで先生に怒られてね、私も怒られたんだからさ

ところでWikipediaによると、石川五右衛門は我が子共々釜茹での刑にされるにあたり、我が子を持ち上げたのではなく苦しませないようにひと思いに沈めた説の方が有力らしい。「思索のための思索」ってのが、多分そんな感じです。

 ここから買っても私には1円も入らないので安心して買おう!

 

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