珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

ブログ記事を脳内で拵えることとそれを撒き散らすことについての覚書|1円<『珈琲三杯』<3円

猫駆除だぜ

スマホのメモアプリに「ぷろがーは文章にしなくちゃいけないのでかんごえることも詩的になりごち」というメモが残してあった。歩きながら急いで入力しているので誤字はやむを得ないし、言わんとしていることは分かるのだが、お前はまず文章を文章にしてほしい。この怪文を分かりやすく解説すると、こう。日常生活の中で何かしら心動かされることが起こったとして、普通なら「すげえ」「やべえ」「ビビった」「ウケる」くらいの感想を脳裏にしたためておけばそれで済む。しかしブロガーの場合、その出来事を立派な「ネタ」として「記事」に仕上げなければならないので、そのような語彙力薄弱な感想止まりでは困るのだ。なのでついつい脳内で文章を起こしてしまう。ブログの体裁に合わせて感想を整えてしまう。例えば「歩いてて猫に近づいたらめっちゃビビってどっか行った、ワロタ」くらいの出来事であっても、「タイトル:野良猫を吹き飛ばした件。通勤途中、石垣の上でぼんやりと宙を眺めている灰色の猫を見かけた。野良猫を見ると近づかずにはいられない私は足音を殺し、夜闇に紛れてそろそろと近づいた。すると、漸くこちらに気づいた猫が、あまりにも驚きすぎたせいか、目玉が飛び出んばかりに目を見開いたまま、まるで海老のような、横から見ると「⊃」の体勢で、真後ろにスポーンと吹き飛んで、石垣の裏に消えていった。あれは猫が己の意思で逃げたのではなく、あたかも腹パンを食らって 私から発せられた謎エネルギーによって吹き飛んでいるように見えた。猫の残像を撫でながら考える。私はあわよくば猫を愛でたかったのであって、決して吹き飛ばしたかったわけではない。猫を傷つけるくらいなら、力など欲しくはなかった。私の拳は気に食わない連中に腹パン食らわす 悪の組織に鉄拳制裁するためのもので、猫を吹き飛ばすためのものではない。申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、正直ワロタ」くらいまでぽぽぽぽんと考えてしまう。ネタに出来るものなら何でもネタにするし、記事に昇華出来ることなら何でも記事にする。ブログを書く習慣は、諸々のトレーニングに良い。

 

奴隷人生 

 上の段落があまりにも長くなったので最後の方「諸々の」でまとめてしまったが、その「諸々の」を分解すると、こう。まず起こった出来事について、瞬時に状況説明文を整えるレーニング。これでいつ通りすがりの警察官から職質されてもスラスラ説明できるわけだ。冤罪に備えよう。次いで、より適切かつ面白い表現を瞬時に考えるレーニング。これでいつ通りすがりの春風亭翔太から出題されてもスラスラ解答出来るわけだ。笑点に備えよう。最後に、日常の些細な出来事からもなるべく有意義なことを取り出す、取るに足らぬ物事を面白い物事に発展させるというトレーニング。これでいつ通りすがりの涼宮ハルヒに「日常の中の非日常」を求められてもスラスラ提案出来るわけだ。エンドレスエイトに備えよう。とにかく、ブログを書くことはこういった諸々のトレーニングになる。色々と考える目的が他人に直接話す前提ではなく、ブログを通して間接的に話すことが前提になっているのは些か不本意ではあるが。人生に刺激らしい刺激が無いのなら、せめて頭の中で刺激を作ってやろうと思う。起こったことをただ起こったこととして処理するだけでは、刺激の無い人生、本当に流れ作業になってしまう。人生が、ただ流れゆく時間の奴隷であってはならない。身体の外側に刺激を起こすのは骨が折れるが、内側から刺激してやるくらいなら案外誰でも出来るのではなかろうか。

 

縦横無尽の牛タン吐くよ~

 人は物質を独占したがり、そうでないものは共有したがる。例えば目の前にある1万円というお金については独占したがるが、容易に1万円を得る方法は共有したがる。目の前にある1個の林檎については独占したがるが、林檎を安く売っている店の情報は共有したがる。それが善意であろうと何か裏があろうとまあどちらでもいいのだが、物でないものは独占するより共有する方がメリットが大きい。まず人からの感謝が得られる。感謝されると承認欲求が大いに満たされる。そして物でないものを放流すると、物であるものに比べて思いも寄らない大魚になって帰ってくる場合がある。物であるものが極めて有限で容易に消滅するのに比べ、物でないものは消滅しにくく、いくらでも応用が利くからだ。それになんと、物でないものは無一文からでも手に入ることがある。物でないもの、サイコーですね。能ある人は物であるものの収集は必要最低限の困らない程度にとどめ、物でないものの収集に勤しむ。持たざる人も似たようなものである。物であるものの収集が出来ないから、物でないものの収集で代用するしかない。これは……ある意味で、そう考えようによっては、幸せなのかもしれない。能ある人と持たざる人の違いは、強いられていないか、強いられているかの違いである。しかし結果としてやっていることは似たようなものだ。持たざる人は心持ち次第では能ある人になれるかもしれない。

 

ここ≦ピヨシート(2円)

えー、上の段落がブログの話から突然話題転換したようにしか見えないが、えー、「何かについて考えた末にブログに発表したこと」は紛れもなく物でないもので、私は持たざる人なので、物であることを集めることも配り歩くことも出来ずに、物でないものを収集して放流するくらいしか出来ないのだ、という話。私がもし持てる人であったならば、ブログなんか書く代わりに、1万円を配って歩くだろうか?1万円を貰った人が喜んで、私は感謝されて、それでイイハナシダナーとなるだろうか?今私がこの場で撒き散らしている物でないものの価値は如何程。個人的には2円とか、せめて1.5円くらいはあってほしいものだ。1円貰うより私のブログを読んだ方がマシだが、3円貰うよりは価値がない、まあそれでもいいさね。ここまで目を通してくださった皆様へ、当方時価総額2円のブログ、5円は無いけどご縁はあったということで、ここはひとつ。

 

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