「自己肯定感」についての覚書|その名で呼ばれてしまったものたちへ
くたばれ♡「自己肯定感」
自己肯定感を高める1番手っ取り早い方法は、「自己肯定感」などという忌まわしい言葉を今すぐ綺麗さっぱり忘れ去ることだ。そして「自己」などという厄介なものについて考えることを止め、「肯定」だの「否定」だのという面倒なことについて審議することを捨て、かつてのようにのびのびと苦悩したり、はつらつと恐怖したり、いきいきと思い煩ったりすれば良い。誰が言ったか「自己肯定感」。こんな言葉が存在するから人類の気苦労が増えるのだ。「自己肯定感」は足の指の傷に似ている。何かちょっと足痛いな、靴ズレかな、と思ってチョイと靴を脱いだらえらい流血していたという経験は無いだろうか。自分が想像していたよりも傷がずっと酷いのを認識すると、その瞬間から足の指がジンジンと痛み出す。さっきまで普通に歩けていたのに、ただ傷口を目視しただけで同じように歩けなくなる。傷を認識してしまったからである。「自己肯定感」も認識してしまったが最後、それまでと同じようには歩けなくなるし、最悪、立つことすらままならなくなるのだ。
今すぐせいめいはんだんしの家に行くんだよ
「自己肯定感」という言葉なんぞ知らなくとも自己肯定感を得たり失ったりすることは出来る。小さい子供は酸素や栄養というものについて何も知らなくとも、酸素を得たり失ったり(?)、栄養を得たり失ったりしているではないか。ヘイそこの「自己肯定感」、お前はだね、「自己肯定感」などという名前を付けられることなく、名無しの権兵衛として一生そこに在れば良かったのだ。それできっと沢山の人が今より幸せになれた。お前が「自己肯定感」という名前を得てしまったが故に、お前について何かしら思うところのある人々が大いに苦悩する羽目になっているのだ。私は自己肯定感が滅びればいいと言っているわけではない。自己肯定感はそこにあっていい。ただ、「自己肯定感」という名前が滅びればいいと思っている。クソコテやめろ!
「自己肯定感」の親戚を増やすな
私が今非常に恐れているのは、将来またどこぞの誰かが、あちこちから収集した「人の心」というデータを引っ掻き回して、そこから取り出した何某に名前を付けてひと仕事した気になっている横で、また多くの人々が「名前を付けられたそれ」について煩う事態に陥ることだ。過去に「自己肯定感」という名前を付けられたことで人々が苦悩することになった何某のようなものを人々の前に連れてきて、それを知ってしまった人々に永久の呪いをかける恐ろしい人間が、この先もきっと現れることだろう。学問の発展という点では正しいのかもしれない。しかし、もう、もうそろそろこの辺で止めにしてもいいのではないか。そういう「名前を付けられたそれ」は、学者の皆様だけで共有して頂いて、我々庶民の目に決して触れないよう、鍵付きの金庫にでも入れて、厳重に保管しておいてくれないか。あなたがたにとっては学術用語に過ぎない「名前の付けられたそれ」が、我々にとっても永久に意識され得ぬ「名無しの権兵衛」であるように、細心の注意を払ってくれないか。少なくとも私はこれ以上知りたくない。何の耐性も無い庶民に対して、これ以上重荷を背負わせることは止めにしてくれないか。クソ雑魚メンタル庶民の背中に、「名前の付けられたそれ」はあまりにも重すぎる。
じここうていかんのつかいかたを きれいに わすれた
「自己肯定感」があるとか無いとか、高いとか低いとか、そういうことについてわざわざ考えなくても、いや知りさえしなくとも、あるときはあるし無いときは無い、高いときは高いし低いときは低い。かつて誰しもが、その領域で生きていたではないか。あの世界に帰ろう。知らなくて良いものを知らなかった頃に帰ろう。知らなくて良いものを知らなかったが故に煩いさえも知らなかったあの頃に帰ろう。「自己肯定感」なんて忘れてしまおう。そして願わくは、忘れてしまったそれの代わりに、素敵なものを覚えられますように!1…2の…ポカン!