珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

過去の自分におんぶにだっこな覚書|幾つかの没文章から1つの記事を組み立てる練習

まあこれ全部私の妄想なんですけど

ミニマリズムに走るのは、極端にゆとりのある人間極端にゆとりのない人間のどちらかと相場が決まっている。述語が強い。前者を「ゆとり型ミニマリスト、後者を「さとり型ミニマリストとでも呼ぼうか。ゆとり型ミニマリストのそれが暮らしを変えて人生を新しくするという、言い換えるなら生まれ直す行為に近いのに対し、さとり型ミニマリストのそれはぶっちゃけ身辺整理の予行演習と言っても過言ではなく、言い換えれば死に備える行為に近いのである。ゆとり型ミニマリストは、「捨てたら暮らしがこう変わった」とか「余計な物を捨てて本当に必要な物を買った」とか言う。彼らは捨てた後のビジョンを見ている。思いを馳せる対象は常に捨てた後のことである。一方さとり型ミニマリストは、「捨てた」としか言わない。彼らは捨てるという行為そのものを見ている。捨てる行為、捨てた自分に固執している。彼らにとっては、「私が捨てる」「私が捨てた」という事実以外に、得るものは無いのである。

 

明日は我が身

ごみばこ(いつか使えるかもしれない没文章を放り込んでおく下書き)に「ゆとり型ミニマリスト」「さとり型ミニマリスト」というワードが寝かしつけられていたので起こしてみた。過去の自分もたまには役に立つものだ。過去の自分なんて何の役にも立たないと思ってた。過去の自分っていうのはアレだ、植物状態になった不老不死の人間みたいなものだ。老いもしないし死にもしないが、永久に目を覚まさない。死んだも同然だが死んでないし、死にきれないし、死ねないものが過去の自分だ。過去の自分、本当にそれは、ひと仕事やった後の眠りなのか?ひと仕事終える前にうっかり居眠りしてその後彼が目覚めることはなかった的な眠りなのではあるまいな?未来に届けるはずの荷物を抱え込んだまま永久に寝オチしたわけではあるまいな?過去の自分が現在に贈ってくれたものって何だろう。現在の自分が未来に贈ってやれるものって何だろう。

 

また金の話してる

未来の自分に贈ってやれるものなんてくらいしか思いつかないので、今日も元気に金を稼ぐのだ。金を贈られて悪い気はしないだろう。金とは選択肢である。未来の自分のために金を残しておくということは、未来の自分に選択肢を残しておくということだ。では、逆の場合はどうか。現在の自分のために金を使わないということは、現在の自分に選択肢を与えないということだ。現在の自分のために金を使わず、未来の自分のためばかりに金を残しておくということは、現在の自分から選択肢を奪った挙句、未来の自分に夥しい数の選択肢をを押し付けることだ。……などということは流石に言い過ぎなので言わない。「貯金は大切」という一般常識は、現在の自分に選択をさせないための都合の良い隠れ蓑だったなんてそんな大層なことは言えない。もし私の目の前に100万円あったなら、相当な数の選択肢が生まれただろう。あれもこれも出来ちゃうな。ところが私は、「選べません」と言う代わりに「将来のために貯金します」と言うのだ。その時点で100万使って何かを始めていたら、トントン拍子に上手く行って、最終的に億の女になれたかもしれない。もちろん100万パァにする可能性もある。そういうことを考慮して……選べない。不確定要素が多すぎる。リスクが怖い。面倒くさい。未来の自分に100万贈るから、未来の自分が選んでくれ。

 

ブーメラン刺さってますよ

昔の没記事や没文章を眺めてると、随分とんがったことを言ってて笑う。子供みたいな愚痴やアレが気に食わないコレが気に食わないということを懸命に書いている。「一生言ってろデブ」のところで鼻水が出た。1年後のお前も大概やぞ。なんにせよ、以前に比べたら今は心も体も丸くなったということだろう。或いは気に食わないものについて熱心に書いてもどうしようもないということを悟ったのだろう。公開しなくてよかった。

 

 

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