珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

ゴチャゴチャなゴチャゴチャに関してゴチャゴチャな覚書|ルンバを頭の中に飼え

考えるな、片付けろ

「シンプルな生活」を志向して「シンプルな生活」についてゴチャゴチャと考え始めるような奴は、そもそも「シンプルな生活」に向いてないと思った。自己紹介です。日毎に「シンプルな生活」への憧ればかりが増していく。どうにかして自分もその境地にたどり着こうと藻掻く。藻掻けば藻掻くほど己の願望に反して全てがゴチャゴチャしていく。ゴチャゴチャ考えながら出勤してゴチャゴチャ考えながら労働してそれが終わったらゴチャゴチャのバッグをゴチャゴチャの部屋に置いてゴチャゴチャの洗面台で顔を洗いゴチャゴチャのデスクに向かいゴチャゴチャのインターネットを眺めながら、その日1日の出来事や思索についてゴチャゴチャと反省しながらゴチャゴチャのブログを書く。「シンプルな生活」への手がかりを何も得られないまま寝て起きたらまたゴチャゴチャの1日が始まるのである。真っ先に片付けるべきは身の回りより頭の中か。

 

1人の人間から見ると世界は必要でないもので溢れていて地球はそのゴミ箱なんだ

私の考える「シンプルな生活」というのは、全てにおいて必要以上を欲しない、という厳格な基盤の上に打ち立てられる。金やモノもそうだが、時間も、教養も、人間関係などもそうだ。金やモノを必要以上に欲しないことで金やモノに関する無意味な煩いから解放されるし、時間を必要以上に欲しないことで自然体な毎日を送れるようにあるし、教養を必要以上に欲しないことで身分不相応な悩みや疑問を抱え込まずに済むし、人間関係を必要以上に欲しないことで、なんと金と時間が節約できちまうんだ 余計な面倒事を背負わずに済む。私の頭の中にある「シンプルな生活」における「シンプル」とは、「本当に必要なものと関わり合う」というよりも「必要でないものに関わらない」方にずっと重きを置いている。いつも考えているのは「私に必要なものは何か?」ではなく「私に必要でないものは何か?」である。必要なものの数を数えるより、必要でないものの数を数える方がずっと骨が折れるだろうに。必要なものが10あるとすれば、必要なものを数えるためには両の手で事足りる。しかし必要なものの補集合的な必要ないものを数えようとすれば……手は一体何大グロス必要だろうか?千手観音が何人いれば間に合うだろうか?こういう遠回りをしているから、何もかもゴチャゴチャしてくるんだ。

 

人は何故それらをひとまず手元に置いてしまうのか

この記事を書きながら手元を見回すだけでも、なんともまあ、目に入るのは必要ないものばかりだ。レシートと、輪ゴムと、カップ麺の剥いだ蓋が机の上に転がっている。ゴミ箱に捨てろよ。あとは決して要らないわけではないのだが、ブラシと、耳かきと、絆創膏が転がっている。引き出しにしまえよ。私の処理能力が、モノの氾濫(もしくは反乱)に追いつかない。今も昔も必要ないもの、昔は必要だったが今は必要なくなったもの、差し当たり今は必要ないものに四六時中包囲されて身動きが取れない。単純に「捨てられないヤツ」とか「片付けられないヤツ」と言われればそれまでなのだが、いつも気づいたときには私の周りは必要ないものだらけになっている。私の目指す「シンプルな生活」においては勿論そんなことはなくて、無意識のうちにゴミはゴミ箱へ捨て られて・・・ いるし、無意識のうちに使ったものは元の場所に片付け られて・・・ いるのだろうな。ウーン、この他人事感。

 

モノなんか捨ててかかってこい

「シンプルな生活」というと大抵「モノが少ない」ということを連想しがちなのだが、本来は限りなく精神面に寄った言葉というか、モノをどうこうすることではなく、人間の中身をどうこうすること並びにそれによって成し遂げられるもの、という理解があるにはある。あるにはあるのだが、人間の中身をどうこうするという目に見えて困難な大仕事に着手することから逃げ、その代わりとして手近なモノをどうこうしようとし始めるから、いつまで経っても核心までたどり着かないのだ。ゴチャゴチャした身の回りばかり見て、ゴチャゴチャした考えに飲まれて、ゴチャゴチャしたモノとゴチャゴチャした自分によって更にゴチャゴチャになる、ゴチャゴチャのゲシュタルト崩壊が更にゲシュタルト崩壊して更にゲシュタルト崩壊して……ゲシュタルト崩壊の10乗くらいゲシュタルト崩壊して、もう何が何だか分からなくなった頃合に、ハッと気づけば手元がゴミやら日用品で溢れているのだ。あーもうこの記事もゴチャゴチャだよ。シンプルってなんだろ。シンプルってなあに。

 

 

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