惨めさ中毒についての覚書|代わり映えしない生活の中にささやかな幸せ、という恐怖
何もないよりある方がいい?
自分から惨めさを取り除いたら何も残らないってんで、惨めさにしがみついている人間は少なくないと思う。惨めさというものが負の要素であることは間違いないのだが、惨めさに対しては同情、憐憫、見下し、軽蔑、嘲笑など、色々な意味で人の視線と感情が集まりやすいからだ。そう、人の視線と感情が。これらが自分の惨めさに集まっているうちは、それが良いものであろうと悪いものであろうと、生きていける気がする。仮にその惨めさを失って、平々々の凡々々、悪くはないが良くもない、貧乏ではないが裕福でもない、阿呆ではないが俊才でもない、醜くはないが美しくもない、暗くはないが明るくもない、不幸ではないが幸福ではない、人としてのあらゆる項目における偏差値が常に46から51の間をウロウロしているようなヤツに、人の視線と感情が集まるだろうか?「普通が1番」とよく言うが、その場合における普通は「何かが飛び抜けた普通」という一見矛盾した普通を指しているのだと私は思う。「魅力的な普通」とか「普通の才能がある」と言い換えても良い。普通の才能が無ければ普通にだってなれないのだ。普通の才能が無い人間の普通は空虚だ。「結婚するならああいう普通の人が良いのよ」と言われるような普通の人と、「あいつは……別に……ウン……普通……」と言われるような普通の人の間には天と地ほどの違いがある。
惨めさを武器に立ち上がること
惨めさを取るか、空虚な平凡さを取るか。これは究極の選択である。毎日の生活のことを考えたら、惨めさよりも平凡が良いに決まっている。ロクにメシも食えない状態よりも、贅沢は出来なくとも米と味噌汁が3食食べられる方が良いに決まっている。けれども、人の視線と感情のことを考えたらどうだろう。「私は毎日まともなご飯にもありつけません、ひもじいです、惨めです、助けてください」と叫ぶのと、「私は毎日米と味噌汁を食べています、まあ一応それで足りています」と叫ぶのと、どちらが人の視線と印象を集めるだろうか。ウーン、食事で例えるのはあまり良くなかったな。まあここまで書いたのでそのままにしておこう。とにかく、惨めさには謎の中毒性がある。文字通りの「毒」なので、自分の心身をどんどん蝕んでいく。
惨めさについての古い記事があった。誰か知らないけど書いてくれた人ありがとう。
やればできるやればできるやればできるなぜやらない
惨めさ中毒について。少し背伸びして手を伸ばせば届くところに、平凡さがある。今よりもう少し頭を使えば、体を使えば、お金を使えば、時間を使えば、届くところにそれはある。それでも使えるはずの頭を使わず、使えるはずの体を使わず、使えるはずのお金を使わず、使えるはずの時間を使わず、それでいて「ああ私って僕って惨めだワ」とぶちぶち言いながら毎日を過ごしたりなんかして、そこまでして惨めさにしがみつくなんて馬鹿げている、お前はそれら全てにおいてもう少しずつやれるだけの力を持っているはずだ。一部の人々はそういって惨めな人を叱るだろう。嗜めるだろう。励ますだろう。それこそが惨めな人の狙いである。叱ってほしいし、嗜めてほしいし、励ましてほしい。それらは何よりも甘い蜜だから。この世で最も甘い極上の蜜と比較して、ほんの少し人生が良くなることに、一体何の価値があろうか。
肋骨3本どころじゃ済まないんだよなあ
来年はもう少し頭を働かせよう。もう少し体を動かそう。もう少しお金を使おう。もう少し時間を払おう。それでいて自分の中の負のアイデンティティが消失するのは死ぬより怖いけど、このままの生活を続けたところで、死にながら生き続けるようなものじゃないか。左に転んでも右に転んでも結局は「死」とぶつかり稽古。ごっつぁんです。