珈琲三杯|思索のための思索

限界フリーターが毎日の思索を書き綴る。手帖の代わり、或いはゴミ箱。

水槽の中と外、それからもっと外についての覚書|行けない世界を眺めること

だって世界は狭いから 

住む世界が違う人々は、案外身近に住んでいるものだ。先日書いた模範的な家なんかは私の住んでいるアパートの真正面にあるし、なんならうちのアパートの並びはデカくて豪華で駐車場に外車が停まっているような家ばかりが並んでいる。ここの激安アパートだけめちゃくちゃ浮いている。街を歩けば思う。「あ、自分とは住む世界が違う人だ」と。街中ではそういう人たちとたくさんたくさんすれ違う。見るからに金持ってそうなマダムもそうだし、ほぼ脚ってくらい脚が長いホストの兄ちゃんもそうだし、子供連れの幸せ家族なんかもそうだ。別に私は金持ちになって全身高級ブランドで固めて歩きたいとは思わないし、ほぼ脚のイケメンになってネオン輝く夜の店でシャンパンを積み上げたいとは思わないし、恋人を作って結婚して家庭を持って一家団欒したいとも思わない。ので、彼ら彼女らを見る目は羨望というには些かお粗末な、なんというか、水族館で妙な形の生き物をガラス越しに眺めている時のアレに近い。はえー。こんな生き物もいるんだなあっていう、アレ。

 

人間とかいうへんないきもの

私は観賞者である。水槽の外から、なんかすごい生き物のなんかすごい生態を、口開けてぼんやり眺めている立場である。人から観賞されるような性質にも色々あるので、被鑑賞者が一概に恵まれているとは言えないが、特に鑑賞されるような要素を持ち合わせていない、悪くはないが大して面白みのない生物は、鑑賞者として一生を過ごすしかないのだ。私、いや、我々のことを不憫だと思うか?ふと後ろを振り返ると、ガラス扉の向こうは館内に入ることすら出来ない連中で溢れかえっている。どうにかして自分も館内の物珍しい生き物を一目見ようと躍起になっている奴もいれば、得体の知れない不気味な生物なんか別に見たくもないねと言って入口に背を向けて座り込んでいる奴もいる。建物にも中の生物にもまるで興味を示さず、四六時中空を眺めて過ごしている奴もいる。そんな彼らに通行人の好奇の眼差しが刺さる。館内の不思議な生き物と館外の不思議な生き物、両方知っているのは観賞者たる我々だけだ。しかし、我々がひとたび観賞の権利を剥奪されたら、あの連中の中に放り込まれるというのか?我々がひとたびお偉いさんに気に入られたら、あの水槽の中に放り込まれるというのか?少なくとも今のところは自由な出入りが許されている。今のところは。

 

ギリギリでいつも生きていたくないから

観賞者は観賞する生き物であるので、基本的には観賞者に対して向けられる眼差しは無い。あるとしたらそれは神の視線くらいである。特別な美点があるわけでもないから贔屓目に「見」られることもないし、放っといてもそこそこに生きていけるような連中だから面倒を「見」られることもないし。勿論その中にはギリギリのところで水槽に入れなかったような奴もいれば、ギリギリのところで水族館に入れてしまったような奴もいる。せめてあと少し這い上がることが出来たなら自分だって水槽の中で自分の才を「見」てもらえるのに。いっそあと少しずり落ちることが出来たなら自分だって建物の外で面倒を「見」てもらえるのに。観賞者もピンからキリまで。「見」られなきゃやってられないようなタイプの観賞者が1番辛いよな。「見」られなきゃやってられないのに、上でも下でもギリギリのところで、決して「見」てもらえないんだもの。

 

あなたは水槽で、わたしは水槽の外で暮らそう

テレビで芸能人の自宅特集とか見て、「いいなあ、羨ましいなあ」と最後に感じたのはいつだったろうか。そんな時期も確かにあった筈なのだ。今そんな番組見ても「手入れがしんどそう」とか「移動が面倒くさそう」とか「物が多すぎてヤダ」とか「ここからここまで全部捨てたい」とかそういう感想しか思いつかないんだろう。逆に、敢えてクソ狭物件を選ぶ今ドキの大学生特集とか見たら、「いいなあ、羨ましいなあ」ってなると思う。今のアパートは決して広くはないが、月日が経つにつれて何故か部屋を持て余すようになってきて、その余白にゴミが散らかるもんで辟易している。まあそれはさておき、住む世界が違う人々は、案外、ガラスの水槽やガラスの扉をたった1枚隔てたところに住んでいるもんだ。

 

 

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